巌流島とは? わかりやすく解説

がんりゅう‐じま〔ガンリウ‐〕【巌流島】

読み方:がんりゅうじま

山口県下関市彦島東方にある船島(ふなしま)の異称慶長17年(1612)佐々木巌流宮本武蔵決闘敗れた所と伝える。


巌流島

読み方:ガンリュウジマ(ganryuujima)

所在 山口県下関市大字彦島船島

参照 船島(フナジマ)

島嶼名辞典では1991年10月時点の情報を掲載しています。

巌流島

作者直木三十五

収載図書仇討二十一話
出版社講談社
刊行年月1995.3
シリーズ名大衆文学

収載図書巌流島
出版社フロンティアニセン
刊行年月2005.3
シリーズ名第2刷 (フロンティア文庫)

収載図書脳を鍛え大人名作読本 9 巌流島・藤十郎の恋
出版社くもん出版
刊行年月2005.4


巌流島

作者川又千秋

収載図書三百小説
出版社嶋中書店
刊行年月2004.11
シリーズ名ワンショット・ノベル


巌流島

読み方:ガンリュウジマ(ganryuujima)

初演 安永4.夏(京・藤川座)


巖流島

読み方:ガンリュウジマ(ganryuujima)

初演 宝暦3.9(江戸・中村座)


巌流島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/21 07:37 UTC 版)

巖流島(がんりゅうじま)は、山口県下関市関門海峡に在る島(無人島)。正式名称は船島(ふなしま)[1]。所在地は「山口県下関市大字彦島字船島648番地」[1]


  1. ^ a b c d e f 巌流島”. 関門海峡観光推進協議会. 2022年5月5日閲覧。
  2. ^ a b c 『日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス)』第2版 p.607-608、2004年7月、財団法人日本離島センター、ISBN 4931230229
  3. ^ 決闘の相手については、そもそも「岩流」の名が先にあり「佐々木小次郎」という姓名自体が後からつけられたものだとする説もある。詳しくは、宮本武蔵#巖流島を参照。
  4. ^ 対岸に同社の大規模な造船所(下関造船所)が立地している。
  5. ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  6. ^ 大河ドラマの原作となった吉川英治作「宮本武蔵」では佐々木小次郎が周防国岩国出身として描かれている。なお、実際の小次郎は豊前国福岡県)あるいは越前国福井県)出身とする説が主流である。
  7. ^ 決闘のさい、武蔵が遅れて到着し小次郎を待たせたとされている。また、この除幕式には『武蔵 MUSASHI』で武蔵役を演じた市川新之助(当時)が招待されていたが、交通事情により羽田で予定の飛行機に搭乗できなかったため到着が30分ほど遅れている。
  8. ^ 関門汽船「巌流島」地元パンフレットより
  9. ^ a b c d 巌流島活性化へ「守り神」再建”. 山口新聞 (2022年4月23日). 2022年5月5日閲覧。
  10. ^ 巌流島航路のご案内 Archived 2015年7月15日, at the Wayback Machine. - 下関市(2011年2月27日閲覧)
  11. ^ 巌流島(1)”. 竜王戦中継plus. 2019年4月2日閲覧。
  12. ^ 「平成最後の大一番」…巌流島で記念の銘板除幕 : 囲碁・将棋”. 読売新聞オンライン (2019年3月30日). 2019年4月2日閲覧。


「巌流島」の続きの解説一覧

巖流島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:15 UTC 版)

宮本武蔵」の記事における「巖流島」の解説

武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巖流島の決闘」といわれるのである。これは慶長年間当時豊前小倉藩であった舟島で、岩流なる兵法者戦ったとされるのである試合が行われた時期については諸説あり、定かではない享保12年1727年)に丹治峯均によって記された、黒田藩二天一流に伝わる伝記丹治峯均筆記』では「辨之助十九歳」と記述しており、ここから計算する慶長7年1602年)となる。 天明2年1782年)に丹羽信英によって記された、同じく二天一流に伝わる伝記兵法先師伝記』では「慶長六年、先師十八歳」と記述しており、慶長6年1601年)となる。 これらの説では武蔵が京に上り吉岡道場試合をする前の十代の頃に巖流島の試合が行われたこととなる。 一方熊本藩二天一流に伝わる武蔵伝記、『武公伝』では試合慶長17年1612年とされる同様に熊本藩二天一流に伝わる武蔵伝記、『二天記』では慶長17年1612年4月とされる。これらの説では武蔵が京に上った後、巖流島の試合が行われたことになる。また『二天記』内に試合前日記され武蔵書状とされる文章4月12日記されており、ここから一般に認知され記念日ともなっている慶長17年4月13日となったが、他説比して信頼性が高いという根拠はない。 この試合記した最も古い史料である『小倉碑文』の内容要約すると、 岩流と名乗る兵術達人武蔵真剣勝負申し込んだ武蔵は、貴方は真剣を使用して構わない自分木刀使用すると言い堅く勝負約束交わした長門豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命賭け技術尽くしたが、武蔵電光より早い木刀一撃相手殺した以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。 とある。 『小倉碑文』の次に古い記録試合当時門司城であった沼田延元寛永元年1624年)没)の子孫が寛文12年1672年)に編集し近年再発見された『沼田家記』がある。内容現代語要約する以下の通り宮本武蔵玄信豊前国来て二刀兵法の師になったこの頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人同士諍いによって武蔵小次郎試合をする事になり、双方弟子連れてこないと定めた試合結果小次郎敗れた小次郎弟子約束守り一人来ていなかったが、武蔵弟子は島に来ていて隠れていた。勝負敗れ気絶した後、蘇生した小次郎武蔵弟子達が皆で打ち殺した。 それを伝え聞いた小次郎弟子達が島に渡り武蔵復讐しようとした。武蔵門司まで遁走城代沼田延元頼った延元武蔵門司城保護しその後鉄砲隊により警護し豊後国に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた武蔵送り届けられたのが豊後国のどこであったのかには以下の説が挙げられる豊後国杵築細川家領地慶長年間杵築城代に松井康之松井興長任じられていた。宮本無二助藤一真原文宮本无二助藤一真)が慶長12年1607年)、細川家家臣友岡勘十郎に授けた当理流免許状現存する。これを沼田家記の「武蔵無二と申者」とするならば、武蔵杵築に住む無二の許へ送られたことになる。 当時日出藩主であり、細川忠興義弟であった木下延俊慶長18年1613年)の日記に延俊に仕えていた無二なる人物のことが記されている。これを沼田家記の「武蔵無二と申者」とするならば、試合当時豊後日出在住していた無二の下へ武蔵送られたことになる。 様々な武芸者逸話収集した『本朝武芸小伝』1716年)にも巖流島決闘伝説記されており、松平忠栄家臣中村守和(十郎右衛門曰く称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島巖流対し武蔵側が多く仲間と共に舟島渡っている様子語られている。 『武将感状記』(1716年熊沢淡庵著)では、武蔵細川忠利仕え京から小倉赴く途中佐々木岸流から挑戦受けたので、舟島での試合約し武蔵削った尺五寸一尺八寸二本の木刀で、岸流は三尺余り太刀戦って武蔵勝ったとしている。 江戸時代地理学者古川古松軒が『二天記』とほぼ同時代天明3年1783年)に『西遊雑記』という九州紀行文記した。ここに当時下関聞いたという巖流島決闘に関する民間伝承記録されている。あくまでも試合から100年以上経った時代民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述類似している。内容現代語訳すると以下の通りである。 岩龍島は昔舟島呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍武芸論争をし、この島で刀術試合をし、岩龍宮本打ち殺された。縁のある者が、岩龍の墓を作り地元人間岩龍島と呼ぶようになったという。赤間ヶ関(下関)で地元の伝承聞いたが、多く書物記述とは違った内容であった岩龍武蔵約束をし、伊崎より舟島渡ろうとしたところ、浦の者が「武蔵弟子大勢引き連れて先ほど舟島渡りました多勢に無勢一人ではとても敵いません、お帰りください」と岩龍止めた。 しかし岩龍は「武士に二言はない堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵と言って強引に舟島渡った浦人言った通り武蔵弟子四人加勢をして、ついに岩龍討たれた。しかし岩龍止めた浦人たちが岩龍義心感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった真偽の程わからないが、地元の伝承そのまま記し後世参考とする。ある者は宮本の子孫が今も小倉家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向向いているという。 『武公伝』には、巖流島での勝負詳述されている。これによると 巖流小次郎富田勢源家人で、常に勢源の打太刀勤め三尺太刀扱えるようになり、18歳自流立て巖流号したその後小倉城主の細川忠興気に入られ小倉に留まった。慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家家老松井興長訪ね小次郎との勝負願い出た。興長は武蔵屋敷留め御家老中寄合で忠興公に伝わり向島舟島)で勝負をすることになった勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。 勝負前日、興長から武蔵に、勝負許可と、明日小次郎細川家の船、武蔵松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵喜んだが、すぐに小倉去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵逃げたのだと噂した。武蔵下関問屋小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由小倉去った伝えた試合当日勝負時刻知らせ飛脚小倉から度々訪れて武蔵遅くまで寝ていた。やっと起きて朝食喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀作ったその後太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった待たされ小次郎武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った木刀持って武蔵が汀より来ると小次郎三尺の刀を抜き鞘を水中投げ捨てた武蔵は「小次郎タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った小次郎怒って武蔵眉間打ち武蔵鉢巻切れた同時に武蔵木刀小次郎の頭にぶつけた倒れた小次郎に近づいた武蔵小次郎が切りかかり、武蔵膝上袷衣の裾を切った武蔵木刀小次郎脇下打ち骨が折れた小次郎気絶した武蔵は手で小次郎の口鼻をって死活を窺った後、検使一礼し、舟に乗って帰路着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。 この話は、武蔵養子伊織出自泥鰌捕りの童であったという話と共に戦い時に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人村屋勘八郎なる人物が、正徳2年1712年)に語ったものと記されている。『武公伝』で慶長17年1612年)に行なわれとされる巌流との戦いで漕ぎ手だった者が100年後に正脩の祖父豊田正剛語った話とされている。仮に、この勝負内容が、事実であれば細川家これだけ事件起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕え松井家中になく、藩外の怪しげ人物からの伝聞しなかったことになる。また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。 『武公伝』では武蔵弟子たち語ったとされる晩年武蔵逸話多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣田中太夫幼少の頃記憶として、松井興長小次郎との試合願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定知らず下関渡り勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。これは、晩年武蔵が度々吉岡との勝負語っていたという逸話対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述全くない事実考えると晩年武蔵舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。 『本朝武芸小伝』1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年完成)等によって成長していった岩流の出自試合内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』(1776年)によって、岩流の詳しい出自氏名佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多く史的価値疑わしい内容によって詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年1909年熊本宮本武蔵遺蹟顕彰編纂による『宮本武蔵』原資料一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治小説『宮本武蔵』その内容用いたことから広く知られるようになったまた、様々な文書で岩流を指し佐々木呼称するようになるのは、元文2年1737年)巖流島決闘伝説ベースとした藤川文三郎作の歌舞伎敵討巖流島』が大阪上演され以降である。この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巖流」という役名つけられ、親を殺され武蔵之助が巖流復讐するという筋立てつけられている。 史料比較する記述に以下のような差異認められる文書名執筆年執筆者編者宮本武蔵巖流年齢加勢名称年齢出自小倉碑文 承応3年1654年宮本伊織 不明 武蔵一人 岩流 不明 兵術達人 沼田家記 寛文12年1672年熊本藩士・沼田家家不明 武蔵弟子達が隠れて来ていた 小次郎 不明 豊前兵法師範 江海風帆 宝永元年1704年吉田重昌 十八武蔵一人 上田宗入 不明 武蔵批判し無二因縁がある長門兵法師範 本朝武芸小伝 正徳4年1714年) 日夏繁高 不明武蔵一人(小倉碑文転記)」「仲間連れてきていた」の両論併記 巖流 不明 兵法遣い 兵法大祖武州玄信公伝来 享保12年1727年丹治峯均 十九歳 武蔵一人 津田小次郎 不明 無二恐れた長門兵法師範 武公伝 宝暦5年1755年豊田正脩 二十九歳 武蔵一人 巖流小次郎 不明 富田勢源弟子細川忠興登用し豊前兵法師範二天記 安永5年1776年豊田英 二十九歳 武蔵一人 巖流小次郎佐々木小次郎十八富田勢源弟子細川忠興登用し豊前兵法師範兵法先師伝記 天明2年1782年丹羽信英 十八武蔵一人 津田小次郎 不明 無二幾度も戦い決着しなかった豊前兵法者西遊雑記 天明3年1783年古川古松軒 不明 門人の士四人與力 佐々木岩龍 不明 伊崎から渡島した(長門側の)武芸者

※この「巖流島」の解説は、「宮本武蔵」の解説の一部です。
「巖流島」を含む「宮本武蔵」の記事については、「宮本武蔵」の概要を参照ください。

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