巌流島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/17 00:02 UTC 版)
船島(巖流島) | |
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海峡ゆめタワーから望む巌流島
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所在地 | 日本(山口県) |
所在海域 | 瀬戸内海 (関門海峡) |
座標 | 北緯33度55分58秒 東経130度55分50秒 / 北緯33.93278度 東経130.93056度座標: 北緯33度55分58秒 東経130度55分50秒 / 北緯33.93278度 東経130.93056度 |
面積 | 0.103 km² |
海岸線長 | 1.6 km |
最高標高 | --.- m |
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手前の黄色い船はチャレンジ日本海上防災が運航していた「フロンティア号」で、現在は同社自体が運航を終了し運航されていない。右奥に見える関門汽船は現在運航中。
巖流島(がんりゅうじま)は、山口県下関市・関門海峡に在る島(無人島)。正式名称は船島(ふなしま)[1]。所在地は「山口県下関市大字彦島字船島648番地」[1]。
概要
本州(下関市彦島)から約0.4 kmの関門海峡内に在る小島。島全体が平らな地形であり、標高は最高地点でも海抜10 mに満たない[2]。島の東海岸に設けられた遊歩道などからは関門海峡を行きかう大型船を間近に見ることができる。また、島の相当部分は公園として整備され人工海浜や多目的広場が設けられている。
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘(巌流島の戦い)が行われたとされることで著名となっている。決闘が行われたとされる当時は豊前小倉藩領の船島であったが、小次郎が「巖流」(「岩流」とも)を名乗った[3]ことから巖流島と呼ばれるようになった。
島内の展望広場には2002年(平成14年)12月11日に除幕された小次郎像と、2003年(平成15年)4月14日に除幕された武蔵像がある[1](後述)。
歴史
武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、『二天記』(安永5年(1776年))によると慶長17年4月13日(グレゴリオ暦では1612年5月13日)に行なわれたといわれるが、それより半世紀前に書かれた立花峯均による『丹治峯均筆記』(享保12年(1727年))には武蔵19歳のときとあり、決闘時期には諸説あって実際は不明である。
かつてはすぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。豊臣秀吉も名護屋から大坂への帰路の途中でここで乗船が座礁転覆し毛利水軍によって助けられたといわれている。このとき船と運命を共にした船長の明石与次兵衛の名を取り、江戸時代には「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれていた。岩礁は大正年間、航行する船舶の増加と大型化の障害となるため爆破されたが、この部分もあわせて三菱重工業[4]によって埋め立てられた。その結果、島の面積は武蔵と小次郎が決闘の時と比べて約6倍の10万3千平方メートルに広がった[1]。明治中期にはコレラ患者の医療施設が立地していた[2]。
第二次世界大戦の前から周辺が日本軍の下関要塞地帯となり、撮影はもちろん、小型カメラすら向けることは禁止された。この軍による規制は非常に厳しく、1935年(昭和10年)の吉川英治の連載小説『宮本武蔵』では、石井鶴三の描いた巖流島の挿絵に「下関要塞司令部許可済」との文言が添えられていたほどである。よってこの時期の島の風景写真は残っていない。武蔵の映画が多数製作されても、ロケはもちろん許可されなかった[5]。
第二次世界大戦末期、アメリカ軍が関門海峡で大量の機雷を投下した影響は、戦後も残った。1945年(昭和20年)9月27日には、巌流島灯台の先で輸送船「興東丸(3364トン)」が触雷により沈没している[6]。それでもなお、戦後の島には移住者があり一時は30世帯に達したが、のち再び減少し1973年(昭和48年)には無人島に戻った。島にはタヌキが生息しており、彦島から渡ってきたのではないかといわれている[1]。
観光
前項の経緯もあり、土地の大半を三菱重工業が所有していたが、島内の相当部分について下関市に譲渡され、2003年に公園として整備された(ただし三菱重工業の所有地は島内に残っており私有地である)。これは同年放送されたNHKの大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』の放映にあわせたもの。島北端の船着場から北東一帯が公園として整備され、人工海浜、多目的広場、展望広場などが設けられている。公園から島の南東・南端にかけて遊歩道が整備されており、南端の遊歩道の終端部には休憩所が設けられている。
展望広場には宮本武蔵と佐々木小次郎の銅像が建立されている。小次郎の像は小次郎ゆかりの地である岩国市[7]出身の彫刻家・村重勝久の作で2002年12月に建立、武蔵の像は公募により廣瀬直樹のデザインを採用した。また、武蔵像は決闘の伝説になぞらえたかのように[8]、小次郎の像から遅れて2003年4月に建立されている。 他に巌流島文学碑、佐々木巌流の碑(1910年10月31日設置)、巌流島釣りデッキ(2003年10月完成)、散策道などがある[9]。
5月のゴールデンウィークに開催される「しものせき海峡まつり」では、巖流島フェスティバルのイベントとして、コンサートや宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の再現などが行われる。
島内は禁煙であるほか、遊泳は禁止[2]である。また、公園・遊歩道部分以外のフェンスで仕切られた区域は三菱重工業所有地であり立入禁止となっている。島にトイレはあるが売店や自動販売機などはなく、ゴミを回収する施設は設けられていない。
舟島神社
島内には舟島神社[1](船島神社[10])がある。神社の創建年は不明だが、NHK大河ドラマ『武蔵』の放映の際の整備で地鎮大神と龍神大神の神石2柱が発見され、2002年に地元住民らにより社が建立された[10]。しかし、シロアリ被害を受け、2019年(令和元年)9月の台風17号で屋根や壁が崩落[10]。2022年4月から修復工事が行われ、建屋は造らず、神石2柱の下に新たに御影石を置いて台座を高くし、周りを囲む石組みも手直しするなどの整備が行われた[10]。
交通
島の北端に船着場が設けられており、下関港(唐戸桟橋)および北九州港(門司港)から、関門汽船により船便が運航されているほか、彦島江の浦桟橋からのチャーター船なども運航されている[11]。
舞台になった主な作品
映画
- 宮本武蔵 完結編 決闘巖流島(1956年、東宝、稲垣浩監督)※巖流島のロケは南伊豆の今井浜で行われた
- 宮本武蔵 巌流島の決斗(1965年、出演:中村錦之助・入江若葉・木村功ほか、内田吐夢監督)
- 宮本武蔵(1973年、出演:高橋英樹・田宮二郎・松坂慶子ほか、加藤泰監督)
- 巌流島-GANRYUJIMA-(2003年、出演:本木雅弘・西村雅彦・田村淳ほか、千葉誠治監督)
- 宮本武蔵 -双剣に馳せる夢-(2009年、声の出演:国本武春・菅生隆之ほか、西久保瑞穂監督)※Production I.G制作アニメ映画
ドラマ
漫画
- 江戸前鮨職人きららの仕事(2002年 原作:早川光作画:橋本孤蔵) - スシバトル21決勝戦を巌流島・多目的広場に半ドームの特別会場を設置して行った。
関連項目
- 霊巌洞 - 宮本武蔵が60歳の時に、この地で五輪の書を著した。
- 巌流島の戦い - 1987年10月4日に巌流島で行われた、アントニオ猪木とマサ斎藤によるプロレスの試合。照明代わりに、コーナーポストにかがり火が立てられて、観客なしのノーピープルマッチで行われ、2時間5分14秒、猪木が裸絞めで勝った。1991年12月18日には、馳浩対タイガー・ジェット・シン戦も行われ、1時間11分24秒、馳が裏投げでKO勝ちした。
- 昭和の巌流島 - 1954年12月22日に行われた、木村政彦と力道山のプロレスの試合。蔵前国技館で行われた(巌流島で行われたわけではない)
- 1956年の日本シリーズ - 1956年10月10日から10月17日まで行われた、水原茂率いる読売ジャイアンツと三原脩率いる西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)が対決した日本選手権シリーズ。メディアからは巌流島の戦いに例えられた。結果は4勝2敗で西鉄の勝利。
- 巌流本舗 -下関市の和菓子製造業。同社が製造・販売する菓子「巌流焼」は同地域での知名度は高く、映画チルソクの夏においても街角の商品看板など、下関の風景イメージの一つとして採用されている。
- 将棋の第31期竜王戦七番勝負 - 2018年12月21・22日に最終第7局が下関市の春帆楼で行われたが、その前日に対局者の羽生善治竜王と広瀬章人八段が来訪[12]。翌2019年3月には記念の銘板が決戦像の前に設置され、対局を制して竜王を獲得した広瀬を迎えて除幕式を行った[13]。
脚注
- ^ a b c d e f “巌流島”. 関門海峡観光推進協議会. 2022年5月5日閲覧。
- ^ a b c 『日本の島ガイド SHIMADAS(シマダス)』第2版 p.607-608、2004年7月、財団法人日本離島センター、ISBN 4931230229
- ^ 決闘の相手については、そもそも「岩流」の名が先にあり「佐々木小次郎」という姓名自体が後からつけられたものだとする説もある。詳しくは、宮本武蔵#巖流島を参照。
- ^ 対岸に同社の大規模な造船所(下関造船所)が立地している。
- ^ 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
- ^ 日置英剛『年表 太平洋戦争全史』国書刊行会、2005年10月31日、764頁。ISBN 978-4-336-04719-9。
- ^ 大河ドラマの原作となった吉川英治作「宮本武蔵」では佐々木小次郎が周防国岩国出身として描かれている。なお、実際の小次郎は豊前国(福岡県)あるいは越前国(福井県)出身とする説が主流である。
- ^ 決闘のさい、武蔵が遅れて到着し小次郎を待たせたとされている。また、この除幕式には『武蔵 MUSASHI』で武蔵役を演じた市川新之助(当時)が招待されていたが、交通事情により羽田で予定の飛行機に搭乗できなかったため到着が30分ほど遅れている。
- ^ 関門汽船「巌流島」地元パンフレットより
- ^ a b c d “巌流島活性化へ「守り神」再建”. 山口新聞 (2022年4月23日). 2022年5月5日閲覧。
- ^ 巌流島航路のご案内 Archived 2015年7月15日, at the Wayback Machine. - 下関市(2011年2月27日閲覧)
- ^ “巌流島(1)”. 竜王戦中継plus. 2019年4月2日閲覧。
- ^ “「平成最後の大一番」…巌流島で記念の銘板除幕 : 囲碁・将棋”. 読売新聞オンライン (2019年3月30日). 2019年4月2日閲覧。
外部リンク
- 巌流島 - 下関市観光政策課によるWEBサイト「楽しも!」内に在る巌流島案内ページ
巖流島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:15 UTC 版)
武蔵が行った試合の中で最も広く知られているものは、俗に「巖流島の決闘」といわれるものである。これは慶長年間に当時豊前小倉藩領であった舟島で、岩流なる兵法者と戦ったとされるものである。 試合が行われた時期については諸説あり、定かではない。 享保12年(1727年)に丹治峯均によって記された、黒田藩の二天一流に伝わる伝記『丹治峯均筆記』では「辨之助十九歳」と記述しており、ここから計算すると慶長7年(1602年)となる。 天明2年(1782年)に丹羽信英によって記された、同じく二天一流に伝わる伝記『兵法先師伝記』では「慶長六年、先師十八歳」と記述しており、慶長6年(1601年)となる。 これらの説では武蔵が京に上り吉岡道場と試合をする前の十代の頃に巖流島の試合が行われたこととなる。 一方、熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『武公伝』では試合は慶長17年(1612年)とされる。同様に熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記、『二天記』では慶長17年(1612年)4月とされる。これらの説では武蔵が京に上った後、巖流島の試合が行われたことになる。また『二天記』内に試合前日に記された武蔵の書状とされる文章に4月12日と記されており、ここから一般に認知され記念日ともなっている慶長17年4月13日説となったが、他説に比して信頼性が高いという根拠はない。 この試合を記した最も古い史料である『小倉碑文』の内容を要約すると、 岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、堅く勝負の約束を交わした。長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。 とある。 『小倉碑文』の次に古い記録は試合当時に門司城代であった沼田延元(寛永元年(1624年)没)の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見された『沼田家記』がある。内容を現代語で要約すると以下の通り。 宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。試合の結果、小次郎が敗れた。小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。勝負に敗れ気絶した後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。 それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。延元は武蔵を門司城に保護し、その後鉄砲隊により警護し豊後国に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。 武蔵が送り届けられたのが豊後国のどこであったのかには以下の説が挙げられる。 豊後国杵築は細川家の領地で慶長年間は杵築城代に松井康之・松井興長が任じられていた。宮本無二助藤原一真(原文は宮本无二助藤原一真)が慶長12年(1607年)、細川家家臣・友岡勘十郎に授けた当理流の免許状が現存する。これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、武蔵は杵築に住む無二の許へ送られたことになる。 当時、日出藩主であり、細川忠興の義弟であった木下延俊の慶長18年(1613年)の日記に延俊に仕えていた無二なる人物のことが記されている。これを沼田家記の「武蔵親無二と申者」とするならば、試合当時も豊後日出に在住していた無二の下へ武蔵は送られたことになる。 様々な武芸者の逸話を収集した『本朝武芸小伝』(1716年)にも巖流島決闘の伝説が記されており、松平忠栄の家臣・中村守和(十郎右衛門)曰くと称して、『沼田家記』の記述と同様、単独渡島の巖流に対し武蔵側が多くの仲間と共に舟島に渡っている様子が語られている。 『武将感状記』(1716年、熊沢淡庵著)では、武蔵は細川忠利に仕え京から小倉へ赴く途中、佐々木岸流から挑戦を受けたので、舟島での試合を約し、武蔵は櫂を削った二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀で、岸流は三尺余りの太刀で戦って武蔵が勝ったとしている。 江戸時代の地理学者・古川古松軒が『二天記』とほぼ同時代の天明3年(1783年)に『西遊雑記』という九州の紀行文を記した。ここに当時の下関で聞いたという巖流島決闘に関する民間伝承が記録されている。あくまでも試合から100年以上経った時代の民間伝承の記録であり、史料としての信頼性は低いが、近年再発見された『沼田家記』の記述に類似している。内容を現代語訳すると以下の通りである。 岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、多くの書物の記述とは違った内容であった。岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください」と岩龍を止めた。 しかし岩龍は「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」と言って強引に舟島に渡った。 浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった。 真偽の程はわからないが、地元の伝承をそのまま記し、後世の参考とする。ある者は宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという。 『武公伝』には、巖流島での勝負が詳述されている。これによると 巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巖流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。 勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。 試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。 待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。 武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。 この話は、武蔵の養子・伊織の出自が泥鰌捕りの童であったという話と共に、戦いの時に武蔵が島に渡るときの船の漕ぎ手であったとする小倉商人の村屋勘八郎なる人物が、正徳2年(1712年)に語ったものと記されている。『武公伝』で慶長17年(1612年)に行なわれたとされる巌流との戦いで漕ぎ手だった者が100年後に正脩の祖父の豊田正剛に語った話とされている。仮に、この勝負の内容が、事実であれば、細川家でこれだけの事件が起こったにもかかわらず、それについての記述が『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中になく、藩外の怪しげな人物からの伝聞しかなかったことになる。また、前述の『沼田家記』の内容とも大きく異なっている。 『武公伝』では武蔵の弟子たちが語ったとされる晩年の武蔵の逸話が多く記載されているが、岩流との勝負については、村屋勘八郎の話以外、弟子からの逸話はなく、松井家家臣の田中左太夫が幼少の頃の記憶として、松井興長に小次郎との試合を願い出た武蔵が、御家老中寄合での決定を知らず下関に渡り、勝負の後に興長に書を奉ったという短い話のみ記載されているのみである。これは、晩年の武蔵が度々吉岡との勝負を語っていたという逸話と対照的であり、『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測することができる。 『本朝武芸小伝』(1716年)、『兵法大祖武州玄信公伝来』(1727年)、『武公伝』(1755年に完成)等によって成長していった岩流の出自や試合の内容は、『武公伝』を再編集した『二天記』(1776年)によって、岩流の詳しい出自や氏名を佐々木小次郎としたこと、武蔵の手紙、慶長17年4月13日に試合が行われたこと、御前試合としての詳細な試合内容など、多くの史的価値が疑わしい内容によって詳述された。『二天記』が詳述した岩流との試合内容は、明治42年(1909年)熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』で原資料の一つとなりそのまま史実とされ、さらに吉川英治が小説『宮本武蔵』でその内容を用いたことから広く知られるようになった。 また、様々な文書で岩流を指し佐々木と呼称するようになるのは、元文2年(1737年)巖流島決闘伝説をベースとした藤川文三郎作の歌舞伎『敵討巖流島』が大阪で上演されて以降である。この作品ではそれぞれに「月本武蔵之助」「佐々木巖流」という役名がつけられ、親を殺された武蔵之助が巖流に復讐するという筋立てがつけられている。 史料を比較すると記述に以下のような差異が認められる。 文書名執筆年執筆者・編者宮本武蔵巖流年齢加勢名称年齢出自小倉碑文 承応3年(1654年) 宮本伊織 不明 武蔵一人 岩流 不明 兵術の達人 沼田家記 寛文12年(1672年) 熊本藩士・沼田家家人 不明 武蔵の弟子達が隠れて来ていた 小次郎 不明 豊前の兵法師範 江海風帆草 宝永元年(1704年) 吉田重昌 十八歳 武蔵一人 上田宗入 不明 武蔵を批判し、無二と因縁がある長門の兵法師範 本朝武芸小伝 正徳4年(1714年) 日夏繁高 不明 「武蔵一人(小倉碑文の転記)」「仲間を連れてきていた」の両論併記 巖流 不明 兵法遣い 兵法大祖武州玄信公伝来 享保12年(1727年) 丹治峯均 十九歳 武蔵一人 津田小次郎 不明 無二が恐れた長門の兵法師範 武公伝 宝暦5年(1755年) 豊田正脩 二十九歳 武蔵一人 巖流小次郎 不明 富田勢源の弟子で細川忠興が登用した豊前の兵法師範。 二天記 安永5年(1776年) 豊田景英 二十九歳 武蔵一人 巖流小次郎(佐々木小次郎) 十八歳 富田勢源の弟子で細川忠興が登用した豊前の兵法師範。 兵法先師伝記 天明2年(1782年) 丹羽信英 十八歳 武蔵一人 津田小次郎 不明 無二と幾度も戦い決着しなかった豊前の兵法者。 西遊雑記 天明3年(1783年) 古川古松軒 不明 門人の士四人與力 佐々木岩龍 不明 伊崎から渡島した(長門側の)武芸者。
※この「巖流島」の解説は、「宮本武蔵」の解説の一部です。
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