「巖流島の決闘」とは? わかりやすく解説

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「巖流島の決闘」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 22:06 UTC 版)

佐々木小次郎」の記事における「「巖流島の決闘」」の解説

武蔵決闘した舟島」は「巖流島」と名を変えられ、この勝負はのちに「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった吉川英治小説『宮本武蔵』では、「武蔵決闘にわざと遅れたとなっているが、これは『武公伝』に材を採った吉川創作である。 武蔵養子である宮本伊織が、武蔵死後9年目建立した小倉顕彰碑小倉碑文』(1654年)によると、「岩流」は「三尺白刃」を手にして決闘挑み武蔵は「木刃の一撃」でこれを倒したとある。このときの武蔵必殺の一撃は「電光猶ほ遅きが如し」と表現されている。また碑文には「両雄同時に会し」とあり、武蔵遅刻していない。 ただし、豊前国細川家小倉藩家老門司城代の沼田延元家人による『沼田家記』(沼田延元生誕から死去まで記した一代記1672年完成)によると、武蔵は「小次郎」なる岩流の使い手との決闘の際、一対一約束反して弟子四人引き連れ巌流島渡り決闘では武蔵小次郎仕留めることができず、小次郎はしばらく後に息を吹き返しその後武蔵弟子らに撲殺されたとある。小次郎弟子らは決闘真相知り反感抱いて武蔵襲撃するが、門司城逃げ込み城代沼田助けにより武蔵は無事落ち延びたとあり、武蔵かくまったという沼田延元美談一つとして武蔵エピソード紹介されている。決闘至った理由も、弟子らが互いの師の優劣揉めたことが発端記されており、門人らの争い一連の騒動引き起こしたとされている。 関係者全て死去した後に書かれ武蔵伝記二天記』(1776年)の本文では「岩流小次郎」、注釈では「佐々木小次郎」という名になっており、この決闘刃長3尺余(約1メートル)の野太刀備前長光(びぜんながみつ)」を使用武蔵滞在先の問屋貰った艫を削った大きめ木刀使い、これを破ったとある。 熊沢淡庵の『武将感状記』では、武蔵細川忠利小倉藩主)に仕えて京から小倉赴く途中で「岸流」もしくは「岩流」(併記)から挑戦を受け、下関での決闘約したとなっている。こちらでは、武蔵乗っていた船の棹師からもらった二つ割り手許削って尺五寸長い木刀と、一尺八寸の短い木刀拵えたとある。 古川古松軒『西遊雑記』1783年)では、一対一約束を「宮本武蔵の介」が破って門人数人連れて舟島渡ったのを見た浦人たちが「佐々木岩龍もしくは「岸龍」をとどめたが、「武士約束を破るは恥辱」とこれに一人挑む。しかし武蔵には4人の門人加勢していて、ついに岩龍討たれてしまう。浦人たちは岩龍義心感じてこの舟島に墓を作り冥福祈りそれ以来ここを「岩龍島」と呼ぶようになった、とある。 なお、決闘使用した剣は、『江海風帆』(1704年)では「青江」、『本朝武芸小伝』1714年)では「物干ざほ(ざお)」(自ら名付けたものと書かれる)とされ、大抵は「三尺」「三尺余」と説明される

※この「「巖流島の決闘」」の解説は、「佐々木小次郎」の解説の一部です。
「「巖流島の決闘」」を含む「佐々木小次郎」の記事については、「佐々木小次郎」の概要を参照ください。

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