「嵐作戦」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 10:08 UTC 版)
詳細は「嵐作戦」を参照 この状況を最終的に「解決」したのが、クロアチアによる「嵐作戦」であった。1995年になるとクロアチアは、欧州連合、国際連合、アメリカ合衆国、ロシアが提示するセルビア人勢力に一定の自治権を認める和平案に対して譲歩の姿勢を見せ時間を稼ぐ一方で、セルビア系住民の支配地域に展開する国連平和維持軍の活動期限切れに伴う早期の撤退を強く促していた。 平和維持軍の活動は規模を縮小することで同意されたが、その直後の5月にまず、クロアチア軍は西スラボニアを急襲(「閃光作戦」)し、セルビア人の追い出しにかかった。セルビア側は報復として、ザグレブ市民に対しロケット弾での攻撃を行った。続く8月3日から始まった「嵐作戦」ではクライナ・セルビア人共和国の首都クニンを目指して侵攻。わずか3日間の戦闘でクニンを占領した。この作戦による民間人の犠牲者は、クロアチア政府の発表では約150人とされ、セルビア側の発表では主として老人や病人など約2,600人が虐殺されたという。また、大量の難民が発生し、主にボスニアのセルビア人支配地域を経由してセルビアに流出したセルビア系難民は15-20万人と見積もられている。この作戦を指揮したクロアチア軍将軍アンテ・ゴトヴィナはクロアチアの英雄として祭り上げられたが、一方で虐殺と大量の難民を生み出した事により旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追された。ゴトヴィナは2005年12月にスペインのカナリア諸島で拘束され、ハーグに移送されたが、「英雄」であるゴトヴィナを戦犯扱いすることに対するクロアチア国内からの反発は大きかった。 西スラボニアとクライナの喪失を通じて、クロアチア国内のセルビア人は大きく数を減らした。セルビア共和国と国境を接している東スラボニアには未だセルビア系住民の自治地域が残されていたが、1995年11月11日のエルドゥート和平合意により、東スラボニアの将来的なクロアチアへの併合が認められ、国連暫定統治を経て1998年1月にクロアチア政府の統治下に収まった。
※この「「嵐作戦」」の解説は、「クロアチア紛争」の解説の一部です。
「「嵐作戦」」を含む「クロアチア紛争」の記事については、「クロアチア紛争」の概要を参照ください。
- 「嵐作戦」のページへのリンク