「川南護國神社に空挺部隊一万有余の英霊合祀の由来」碑
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川南護國神社に空挺部隊一万有余の英霊合祀の由来昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され同年九月から使用を始めた 翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ。天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍したしかし 我々の悲願も空しく戦敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺身練習部構内の挺身神社に神鎮り給もうたのである ところが 二十一年初夏の頃 宮崎県に進駐していた米軍は理不尽にも挺身神社を焼払ってしまった 拠り所を失った英霊は 当時旧兵舎を校舎にしていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った。そのようなことがあって 一時唐瀬の石川富士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護國神社が再建されるに及び ここに合祀し今日に及んでいる。護國神社の祭祀は 川南護國神社奉賛会によって永久に行われることに感謝し後世のためここに由来を刻しておく次第である。平成二年十一月二十三日 陸軍空挺部隊戦友一同 — 碑文引用出典 陸軍挺身部隊の記念碑はこのほか、旧陸軍新田原飛行場跡に立地する航空自衛隊新田原基地内に「空挺歌碑」として建立されている。また、国立病院機構宮崎病院の敷地内には、第3連隊兵営の給水塔が戦争遺構として残されており、農地開拓により消えてしまった練兵場唯一の遺構として、また川南町のシンボルとして残されている。 一方、海軍にも落下傘部隊が編成されたが、「海軍落下傘部隊発祥野之地碑」は千葉県館山市の海上自衛隊館山航空基地敷地内に建立された。
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