「巡礼」と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 22:30 UTC 版)
「フレデリカ・ブレーメル」の記事における「「巡礼」と晩年」の解説
『ハルタ(Hertha)』の発行後、ブレーメルは南ヨーロッパ、初めにスイス、ギリシャ、イタリア、フランス、オリエントへと移った。このことについて、『古い世界の生活(Lifvet i gamla världen)』(1860 - 1862)に描かれている。 ブレーメルは特に様々な教会を研究した。その頃、ブレーメルは全ての信仰者が迎えられる未来の教会を設立する考えを持っていた。彼女はこれを「最も批判的な見地(den högsta kritiska ståndpunkten)」と呼び、実際には多くの宗教と道徳体系を一致させることができるということを意図した。彼女は進歩的な考えをしているが、ある場面では古い考え方にとらわれていた。オーサ・モーバリ(Åsa Moberg)はブレーメルの意見をその時代の植民地主義や説教に通じるものとして、ブレーメルは厳しい批判を受けたとされる 。 1861年にブレーメルはスウェーデンに帰郷した。晩年は、王国議会の改革についての長期的な議論に参加するなどし、後の1866年に効力を発する二院制が開始された。短い闘病生活の後、1865年の大晦日にオーシュタ城の小部屋で息を引き取った。彼女の遺産は未発行のものも含まれ、姉妹のシャルロッテ・クイディング(Charlotte Quiding)によって受け継がれた。彼女は選別した一部を発行したが、多くを処分し、残りをスウェーデン国立図書館に寄贈した。フレデリカ・ブレーメルはハーニンゲコミューンにあるウステルハーニンゲ教会の家族墓に埋葬されている。
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