「左近大夫将監秋時」
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元弘3年11月19日、越中国新川郡堀江荘の地頭職が後醍醐天皇の輪旨を得て祇園社家に根本一円神領として付された。「八坂神社文書」によると、祇園社家に与えられる前の地頭は「堀江庄」の「秋時」と「庄内三ヶ村(梅沢・西条・小泉)」の「公篤法師」なる人物であった。また、建武政権を打倒して室町幕府を開いた足利尊氏は建武5年に上記の文書を追認する書状を出しているが、そこでも前代の地頭として「遠江入道」と「左近大夫将監秋時」なる人物の名が挙げられている。 二つの文書に登場する人名の内、「秋時」と「左近大夫将監秋時」、「公篤法師」と「遠江入道」が同一人物であることは明らかであり、当初は『太平記』に「越中ノ守護名越遠江守時有」とあることから遠江入道こそが名越時有と考えられていた。しかし、『尊卑分脈』には時有の大叔父に当たる人物として「遠江守公篤」という人物が記載されており、「公篤法師=遠江入道」は現在では「遠江守公篤」に相当すると考えられている。また、同じく『尊卑分脈』は時有を「左将監」とも号しており、「左近大夫将監秋時」こそ名越時有の別名とみられる。 「左近大夫将監秋時」が地頭であった「堀江庄」と、「公篤法師=遠江入道」が地頭であった「庄内三ヶ村」では前者が後者に対して負担能力に倍近い差があり、「堀江庄地頭」秋時の方がより上位の人物であるとみられることも秋時=時有説を裏付ける。久保尚文は、『続千載和歌集』が編纂された元応2年(1320年)以降、亡くなる(1333年)までの間に時兼は「秋時」と改名したのではないかと推測している。
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