「左近大夫将監秋時」とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「左近大夫将監秋時」の意味・解説 

「左近大夫将監秋時」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 15:05 UTC 版)

名越時兼」の記事における「「左近大夫将監秋時」」の解説

元弘3年11月19日越中国新川郡堀江荘の地頭職後醍醐天皇の輪旨を得て祇園社家に根本一円神領として付された。「八坂神社文書」によると、祇園社家に与えられる前の地頭は「堀江庄」の「秋時」と「庄内三ヶ(梅沢西条小泉)」の「公篤法師」なる人物であったまた、建武政権打倒して室町幕府開いた足利尊氏建武5年上記文書追認する書状出しているが、そこでも前代地頭として「遠江入道」と「左近大夫将監秋時」なる人物の名が挙げられている。 二つ文書登場する人名の内、「秋時」と「左近大夫将監秋時」、「公篤法師」と「遠江入道」が同一人物であることは明らかであり、当初『太平記』に「越中守護名越遠江守時有」とあることから遠江入道こそが名越時有と考えられていた。しかし、『尊卑分脈』には時有の大叔父に当たる人物として遠江守公篤」という人物記載されており、「公篤法師=遠江入道」は現在では「遠江守公篤」に相当する考えられている。また、同じく『尊卑分脈』は時有を「左将監」とも号しており、「左近大夫将監秋時」こそ名越時有の別名とみられる。 「左近大夫将監秋時」が地頭であった堀江庄」と、「公篤法師=遠江入道」が地頭であった庄内三ヶ」では前者後者に対して負担能力に倍近い差があり、「堀江地頭」秋時の方がより上位人物であるとみられることも秋時=時有説を裏付ける久保尚文は、『続千載和歌集』が編纂された元応2年(1320年)以降亡くなる(1333年)までの間に時兼は「秋時」と改名したではないか推測している。

※この「「左近大夫将監秋時」」の解説は、「名越時兼」の解説の一部です。
「「左近大夫将監秋時」」を含む「名越時兼」の記事については、「名越時兼」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「左近大夫将監秋時」」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「左近大夫将監秋時」」の関連用語

1
72% |||||

「左近大夫将監秋時」のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「左近大夫将監秋時」のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの名越時兼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS