「島津家17代目当主」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:41 UTC 版)
義弘を第17代当主とする史料の初出は、幕末に編纂された『島津氏正統系図』と考えられている。これ以降、島津家の系図はこれを基に作られ「義弘=17代当主」という認識が定着していった。また秀吉の九州征伐後、蔵入地として義久には大隅を、義弘には島津の本拠地である薩摩をそれぞれ宛がったことも義弘が当主であるという認識を補強する材料となった。 しかし1980年代に入ってから、島津家当主の証しである「御重物」の研究が西本誠司によって進み、当主の地位が義久から忠恒に直接譲られていることが判明すると、義弘は17代当主ではなかったという学説が山口研一や福島金治ら多くの研究者に支持されるようになった。また、平成18年(2004年)に尚古集成館文化財課長で鹿児島大学法文学部非常勤講師の松尾千歳も義弘は当主ではないとする論文を発表した。 なお、島津本宗家や、島津家関連の物品を所蔵・研究・展示している尚古集成館では系図重視の観点から現在も義弘を17代当主としている。 ちなみに伊達氏からの養子の国分盛氏を国分氏を当主でなく「代官」として迎えたり、多賀谷氏から亀田藩主岩城氏を継いだ岩城宣隆や中継ぎで佐土原藩主となった島津久寿を「番代」として当主に数えない事例があり、戦国時代から江戸初期において、他家においても豊州島津家への養子入り経験がある義弘と似た事例が存在する。
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