「島のケルト」は存在するか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 09:59 UTC 版)
「ケルト人」の記事における「「島のケルト」は存在するか」の解説
上記の通り、ローマ征服までのブリテン島の先住民は初めからケルト系に属すか、「大陸のケルト」から文化的な影響を受けたケルト系住民であるという従来の定説に対し、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}考古学の研究成果などからその妥当性が問われつつある。[要出典] 通俗的に「島のケルト」として扱われるアイルランド、スコットランド、ウェールズ、あるいはフランスのブルターニュ地方の人々や文化に対して「ケルト」という言葉が適用されるようになったのは、近代以降であり、前近代の諸文献においては、これらの地域に対して「ケルト」という言葉も概念も不在であった。 第一に行われる批判は大陸のケルトとの血縁関係が存在しないという点である。遺伝子研究によって飛躍的な進歩を遂げた現代の考古学は「島のケルト」と称されていた人々が、ガリア北部や沿岸部のどの部族からも遠い遺伝子を持つこと、そしてむしろイベリア人からの影響が存在していることをつきとめた。[要出典]これは少なくとも彼ら「島のケルト」に「大陸のケルト」との混血は見られない(大規模な移民は行われていない)という事実を示している。根拠の一つであった貨幣鋳造の普及に関しても、ケルト人がもたらしたとされる他の文化の渡来時期と明らかに食い違うことが判明している。「大陸のケルト」の移民がなかったということが真実だとするなら、なぜケルトの鉄器文化の継承があったのかについては、次の批判と密接に関連している。 第二の批判は、ブリテン島の鉄器文明と大陸のケルト鉄器文明(ラ・テーヌ文明)は異なるとするものである。一例を挙げれば、ケルト美術と称される装飾品文化はブリテン島ではさほど見られず、ラ・テーヌ文明の埋葬法とも全く違う手法で遺体を葬っていたことが分かっている。[要出典]これ以外にも家屋の形状など建築に関する部分など至る所に相違点があり、とても「大陸のケルト」とブリテンの文明を同一視することはできないとされる。こうした論に立つ学者は、これまでの学者達は文明の発達を単一の源のみに求め、ブリテン島で独自に発達したという可能性を恣意的に排除していたと批判している。[要出典]ちなみに、アイルランドについても僅かな関連性のみでラ・テーヌ文化の流入を決定付けていたことが分かり、アイルランド南部に至ってはラ・テーヌ文化の渡来は痕跡すら見られない。 近年ではこれらの批判に加え、ラ・テーヌ文明と「ケルト」がさほど関連していなかったという学説や、そもそもケルトという区分け自体を疑問視する声も挙がりつつある。[要出典]こうした批判は古代ブリテン史をいわば自国の歴史に書き換えようとする動きとしてフランスなどの学者からは批判に晒されているが、それに対してイギリスの学者からは古代ケルトを統合欧州の象徴に据える作為だとする反駁がなされるなど、国家間の政治問題と化している感がある。
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