「峠の釜めし」の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 09:06 UTC 版)
戦後、旅行者数も増えていったが、この頃の駅弁はどこも似たような内容であったため飽きられていた。荻野屋も例外ではなく、全列車が横川 - 軽井沢間の碓氷峠通過に際し補助機関車の連結が必要なために長時間停車する駅という立地にもかかわらず、業績が低迷していた。そこで、当時の4代目社長であった高見澤みねじは停車中の列車に乗り込み、旅行者に駅弁に対する意見を聞いて回った。意見の大半は「暖かく家庭的で、楽しい弁当」というものであった。 高見澤と、当時社員で後に副社長となる田中トモミは、その意見をどのようにして駅弁に反映するかを考え、弁当と一緒に販売する緑茶の土瓶に着目した。当時の駅で販売されていた緑茶の土瓶は陶器製であったが、陶器は保温性にも優れていた上に匂いも移らないため、「暖かい」「楽しい」という要望をクリアできる。さらに「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にヒントを得て、早速益子焼の職人に相談し、一人用の釜を作成することにした。 こうして当時の「駅弁=折り詰め」という常識を破り、1958年2月1日から販売が開始されたのが「峠の釜めし」である。 当時としては画期的だった温かい駅弁であったことや、『文藝春秋』のコラムに取り上げられたことから徐々に人気商品となり、その後の隆盛へとつながるきっかけとなった。1967年には、フジテレビジョン系テレビドラマ『釜めし夫婦』(池内淳子主演)のモデルにもなった。
※この「「峠の釜めし」の誕生」の解説は、「峠の釜めし」の解説の一部です。
「「峠の釜めし」の誕生」を含む「峠の釜めし」の記事については、「峠の釜めし」の概要を参照ください。
- 「峠の釜めし」の誕生のページへのリンク