「島崎藤村」騒動について
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1957年3月18日、神坂村議会は「岐阜県中津川市との県境を跨いだ合併」を賛成多数で可決。その後中津川市議会・岐阜県議会も賛成したが長野県議会だけは反対多数で否決した。長野県議会が反対した理由は「神坂村は信濃国・長野県を代表する文豪島崎藤村の生誕地である。もし神坂村が長野県を離れて岐阜県に持っていかれたらそれだけでも大損失である。」ということからだが県を代表する人物の生誕地という理由で反対したことがきっかけとなったため後にこう呼ばれるようになったのである。 岐阜県議会も賛成までは全村合併が既定路線であったため村は平穏だったが長野県議会の反対以降急転、村は岐阜県合併派・長野県内合併派に分裂し意見対立から隣同士が目を合わせないといういがみ合いが発生。ついには長野県警の機動隊が常駐するという最悪の事態まで発展した。騒動は内閣総理大臣の裁定にゆだねられることとなったが結果は「越県合併を認める」。しかし自治庁の裁定で「馬籠など北部3集落は長野県残留、その他は岐阜県へ」 と決められ結局両県納得という形で幕引きとなったのである。こうして上記の形で越県合併されて消滅したのであった。
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