ましこ‐やき【▽益子焼】
益子焼
益子焼 |
ましこやき |
陶磁器 |
食器、花器類 |
19世紀の中頃、笠間焼の影響を受けて始まりました。初期の益子焼は、藩の援助を受けて日用品を焼いており、そうして作られたものは江戸の台所で使われていました。大正13年から作家活動を始めた浜田庄司は益子に住む陶工達に大きな影響を与えました。そこから、現在、益子焼として親しまれている食卓用品や花を生ける器等が作られるようになりました。益子の良質な陶土を使って、白化粧、刷毛目(はけめ)等の伝統的な技法で力強い作品が大量に作り出されています。 |
栃木県 |
昭和54年8月3日 |
伝統的な土地の素材である益子でとれる陶土と、釉薬(ゆうやく)等の技術が結び付いて生まれた、落ち着いた艶のある素朴な焼き物です。 |
益子焼
益子焼
益子焼(栃木県益子町ほか)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/13 15:08 UTC 版)
「登り窯」の記事における「益子焼(栃木県益子町ほか)」の解説
19世紀の中頃に笠間焼の影響を受けて始まったとされ、日用品が多く焼かれ江戸でも多く使われた。
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益子焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:17 UTC 版)
益子焼はいわゆる御家焼のひとつであり、1852年(嘉永五年)大塚啓三郎によって始められた。笠間の久野窯で修行し、益子の土を用いて瀬戸物を焼こうとした大塚啓三郎に、藩主大関増昭は、益子陣屋の裏山のふもと、根古屋に土地を与えた。生産量は着実に増し、1855年御用窯となった。作られたのは主に台所用の雑器であり、鬼怒川の水運を利用して江戸で販売された。藩は財政再建のため、益子焼を奨励した。 藩の庇護を失った後、益子では積極的に益子焼を窯が経営し、需要に応えつつ、路を拡大しようとする。当時、土瓶の売れ行きが盛んであり、輸出土瓶の製作が好評だったと伝えられる。1894年に益子陶器協同組合が結成され、また後には益子陶器伝習所もおかれた。 実用品を主にした益子焼に転機が訪れるのは大正期である。民芸運動の陶芸家、濱田庄司が益子に住み、益子の土を生かした独特な作品を作り出していった。浜田は後に国の重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定された。
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