赤津焼
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赤津焼 |
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あかづやき |
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陶磁器 |
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茶器、花器、飲食器 |
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赤津焼の始まりは、奈良時代(700年頃)に焼かれていた須恵器という土器にまで遡り、江戸時代初期に現在ある伝統的技術・技法や名称が確立しました。桃山時代から江戸時代初期にかけて、志野、織部、黄瀬戸(きぜと)、御深井(おふけ)等、各種釉薬(ゆうやく)の技法が確立されました。尾張徳川家の御用窯として栄え、現在まで続いています。 |
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愛知県 |
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昭和52年3月30日 |
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7種の釉薬と、素地(きじ)にへらで彫って模様を付ける「へら彫り」、型で押して模様を付ける「印花」、素地の表面が軟らかいうちに、竹櫛や金櫛を使って平行線、波形、渦巻、点線等の模様を描く「櫛目」、朝鮮から伝えられた技法で、濃いネズミ色の地に白い土で菊の花の模様等を表した「三島手」等の12種類の技法があります。これらの技法を駆使して、桃山時代から伝わる鉄絵を描いています。主に作られているのは茶道具や生け花の道具、割烹食器で、手作りの高級品として専門家に高く評価されています。 |
赤津焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/20 15:41 UTC 版)
赤津焼(あかづやき)は、瀬戸焼のうち、愛知県瀬戸市街地の東方にある赤津地区で焼かれる焼物。
概要
瀬戸窯とともに発展した窯で平安時代の開窯とされ、当地には室町時代の窯跡である小長曽陶器窯跡が残る。戦国時代、瀬戸では「瀬戸山離散」と呼称される窯屋の急激な減少が発生し、多くの窯が美濃地方に移った[1]。
慶長15年(1610年)になって尾張藩初代藩主・徳川義直が当時の赤津村に陶工を集めて瀬戸窯の復興を図った(窯屋呼び戻し)と言われていたが、近年では現存する資料から徳川家康が名古屋開府に合わせて窯屋を呼び戻したものとされている[1]。
また、元和2年(1616年)には名古屋城に赤津から陶工を呼び、御深井丸に窯を築いた。これは明治4年(1871年)の廃藩置県に伴い廃止されたが「尾州御庭焼」として知られている。この御庭焼への出仕を通じてそれまでの赤津焼には無かった安南風の呉須絵の技術が陳元贇より伝えられ、現在では「御深井釉」と呼ばれている。文化4年(1807年)、加藤民吉によって瀬戸に磁器の製法が導入されたが赤津では定着せず、現在に至るまで陶器を主体としている。
現在
7種類の釉薬(灰釉・鉄釉・古瀬戸釉・黄瀬戸釉・志野釉・織部釉・御深井釉)と12種類の装飾技法が今に伝わり、1977年(昭和52年)には、国の伝統的工芸品にも指定された。2010年(平成22年)2月現在、赤津焼伝統工芸士14名を数える[2]。
赤津焼会館
赤津焼会館 | |
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情報 | |
用途 | 資料保存および赤津焼の展示販売 |
事業主体 | 赤津焼工業協同組合 |
階数 | 2階 |
竣工 | 1980年(昭和55年) |
開館開所 | 1980年(昭和55年) |
所在地 | 〒489-0022 愛知県瀬戸市赤津町94-4 |
座標 | 北緯35度13分31.4秒 東経137度7分42.9秒 / 北緯35.225389度 東経137.128583度 |
1980年(昭和55年)、赤津焼の研究資料・民俗資料保存を目的として建設された[3]。
赤津町の高台にあって織部釉の陶板で建物の外壁を被う特徴的な概観をもつ建物で、館内には会合用の研修室などを備えるとともに、茶道具・花器などから普段使いの焼物まで、赤津の窯元の作品を一堂に集めて展示・販売している。
脚注
- ^ a b 愛知県の歴史(3)近世 近世尾張の産業−瀬戸窯業の展開−
- ^ 日本伝統工芸士会:産地別伝統工芸士数(平成22年2月25日現在)
- ^ フォーラム東明21『赤津読本』、発行年度不明、P.12
外部リンク
赤津焼と同じ種類の言葉
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