浜田庄司とは? わかりやすく解説

はまだ‐しょうじ〔‐シヤウジ〕【浜田庄司】

読み方:はまだしょうじ

[1894〜1978陶芸家神奈川生まれ本名、象二。バーナード=リーチ師事し英国研究帰国後は益子(ましこ)焼の向上発展尽力し質朴で力強い作風を展開。また、柳宗悦(やなぎむねよし)らと民芸運動推進した文化勲章受章


濱田庄司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/07 09:10 UTC 版)

はまだ しょうじ

濱田 庄司
濱田庄司(1967年または1968年)
生誕 1894年(明治27年)12月9日
日本神奈川県橘樹郡高津村(現・川崎市 溝ノ口)
死没 (1978-01-05) 1978年1月5日(83歳没)
栃木県芳賀郡益子町
国籍 日本
出身校 東京高等工業学校窯業科
職業 陶芸家
時代 大正 - 昭和
配偶者 和枝[1]
子供 琉司(長男)[2]
晋作(次男)
篤哉(三男)
比路(長女)[2]
比佐(次女)[2]
能生(四男)[2][3]
家族 友緒(孫)
受賞 紫綬褒章
文化勲章
栄誉 重要無形文化財保持者
人間国宝
(工芸技術部門陶芸民芸陶器)
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濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年明治27年〉12月9日 - 1978年昭和53年〉1月5日、本名象二)は、主に昭和時代に活躍した日本の陶芸家民藝運動の中心的な活動家の一人であり、栃木県益子町に定住し、益子焼の中興の祖となった。

長男の濱田琉司は毎日新聞社記者[2][4][5]。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。

生涯

神奈川県橘樹郡高津村(現・川崎市高津区溝ノ口)で、濱田久三の子として、母の実家である太田医院[注釈 1] で生まれる。東京府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(後の東京工業大学窯業科に入学、板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。1期上の各務鑛三とは生涯交友を持った[6]。1916年(大正5年)に同校を卒業した後は、2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃、柳宗悦富本憲吉バーナード・リーチの知遇を得る。

1920年(大正9年)、イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。1923年(大正12年)には首都ロンドンで個展を開催、成功する。1924年(大正13年)に帰国し、しばらくは沖縄県壺屋窯などで学び、1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地である栃木県益子町で作陶を開始する。ほとんど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。

太平洋戦争後の1947年(昭和22年)、益子町に昭和天皇の戦後巡幸があり、昭和天皇に益子焼の特質について奏上する機会を得る[7]。1952年(昭和27年)から翌53年(昭和28年)2月に柳宗悦と[8]欧州を旅行し、リーチと再会して共に帰国した。

1955年(昭和30年)2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定。1964年(昭和39年)に紫綬褒章、1968年(昭和43年)秋に文化功労者文化勲章を受章した。

柳宗悦の同志として民藝運動の興隆にあたり、1961年(昭和36年)5月に柳が亡くなり、日本民藝館の館長を継いだ。1970年(昭和45年)の大阪万博における日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て、1972年(昭和47年)春に新装開館した大阪日本民藝館の初代館長にも就任し、1974年(昭和49年)には松方三郎の後任で日本民藝協会会長を兼務した。なお柳宗理(宗悦の長男)が各・後任を継いだ。

最晩年の1977年(昭和52年)4月には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館した。

1978年(昭和53年)1月、益子にて没。享年83。従三位と銀杯一組を没後追賜された[9][10]。墓所は川崎市高津区の宗隆寺

没後

没後も窯元・濱田窯として引き継がれ、濱田晋作と濱田友緒の陶芸家としての仕事と職人による窯ものと呼ばれる普段使いの器が製作されている[11]

益子では、濱田の生誕百年を記念して1994年(平成6年)に「ましこの炎まつり」が始まり、2016年(平成28年)まで22回開催された後、担い手・出展者の減少と新型コロナ禍で途絶えたが、2025年(令和7年)1月に再開することとなった[12]

弟子

著書

関連文献

「壷屋焼」に関する文献

  • 那覇市立壷屋焼物博物館 編『民藝と壺屋焼 その影響と現在 那覇市立壺屋焼物博物館開館20周年記念/河井寛次郎・濱田庄司来沖100周年記念 平成30年度那覇市立壺屋焼物博物館特別展』那覇市立壷屋焼物博物館、2018年11月23日、3,7,31,40-50,53-56,64,66,77-80,82頁。 NCID BB2783655X国立国会図書館サーチR100000002-I029537572, R100000001-I31111120254084, R100000001-I46111111816570 :展覧会カタログ/会期・会場: 2018年11月3日-12月27日 那覇市立壺屋焼物博物館3階企画展示室

脚注

注釈

  1. ^ 母方祖父の太田東海は種痘所設立者83名の一人、東海の叔母は手塚光照夫人で子孫が手塚治虫である。
  2. ^ 約一年半ほど師事を受けた経験もあり、濱田庄司の影響を受けた。

出典

  1. ^ 人間国宝濱田庄司の妻和枝さんが47年前に漬けた梅”. 真岡新聞. 2023年5月21日閲覧。
  2. ^ a b c d e 『大衆人事録 第23版 東日本篇』「はの部」p.562国会図書館デジタルコレクションのデジタル化資料個人送信サービスにて2023年5月21日閲覧)
  3. ^ a b 下野新聞』2007年(平成19年)7月8日付21面「審美の蔵 県内美術家収集品から 25」「ガラス工芸家 濱田能生さん」「縄文土器のかけら」
  4. ^ お別れ : その便り(2023年4月23日閲覧)
  5. ^ 濱田琉司 - 国立国会図書館サーチ
  6. ^ 各務鑛三 かがみ こうぞう 東京工業大学130年史
  7. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、424頁。 ISBN 978-4-487-74410-7 
  8. ^ 民藝協会のあゆみ 昭和20年〜昭和39年(1945年~1964年)”. 日本民芸協会. 2023年9月30日閲覧。
  9. ^ 官報』昭和53年1月18日 水曜日 本紙15302号「濱田 象二」「従三位に叙する」「銀杯一組を賜る」(一月五日)
  10. ^ 『官報』昭和53年1月18日 水曜日 本紙15302号「故 濱田 象二」「特旨を以て位記を追賜せられる」(一月十三日)
  11. ^ 浜田窯
  12. ^ 濱田庄司の登り窯で焼成/9年ぶり「炎まつり」 栃木・益子 18日に一般公開毎日新聞』朝刊2025年1月10日(東京面)
  13. ^ a b c d e f g h i 『下野新聞』2007年(平成19年)5月26日付4面【私の生きた刻】陶芸家 島岡達三さん 7:濱田庄司「大事な人時に教え受けた」
  14. ^ 『現代陶芸食器図鑑』「121 阿部祐工」(国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて2024年11月23日閲覧)
  15. ^ a b 下野新聞社 1984, p. 130.
  16. ^ 『下野新聞』1989年(平成元年)1月16日付 14面【新・陶源境】大山 隆(益子)「塩釉使い 刷目の作風」
  17. ^ 下野新聞社 1984, p. 133.
  18. ^ a b 下野新聞社 1984, p. 135.
  19. ^ 公益財団法人 濱田庄司記念益子参考館
  20. ^ スリップウェア,誠文堂新光社 2016, p. 164-165.
  21. ^ 藤井佐知 作品集
  22. ^ 藤井佐知 作品集 - 藤井佐知(旧名 幸子)

関連項目

外部リンク




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