浜田式自動拳銃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/21 00:27 UTC 版)
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浜田式自動拳銃(はまだしきじどうけんじゅう)は、太平洋戦争中に日本で開発された自動拳銃。本銃の発明者、濱田文次が昭和16年11月に本銃における6つの新機構の特許を出願した[注 1]ためこう呼ばれる。一式拳銃と二式拳銃の2種類があり口径が異なる。
| 映像外部リンク | |
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| 実銃の映像と解説 | |
| Japanese 7.65mm Hamada Pistol |
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概要
拳銃開発に重きをおいていなかった日本では、重く取り回しづらい国産拳銃の評価は芳しくなかった。もともと日本軍将校は自前で拳銃を用意することもあって外国の拳銃が主に使用されていた。しかし昭和初期、戦争の機運が高まると軍需物資の輸入調達が難しくなったのと、政治的な意図がからみあい国産拳銃の需要が高まった。
一方、浜田銃砲店(2025年時点で現存[1])は明治時代から民間向けに狩猟用の散弾銃やライフル銃の輸入や製造を手掛けていた[2]。しかし国家総動員体制によって民間向け銃器製造販売は商業的に困難となった[3]。このため同店は軍需に活路を求めることとし[4]、同店の濱田文次の設計した軍用拳銃を軍に提案した[4]。製造に当たり浜田銃砲店は日本銃器株式会社を設立している[5]。
一式拳銃
1941年(昭和16年・皇紀2601年)に完成し、将校用の拳銃をかねて市販された。昭和18年末までにおよそ5000丁あまりが製作・販売されたとされる[5]。.32口径(7.65mm)の.32ACP弾を使用し装弾数は9+1発[6]。シンプルブローバック方式で[7]、撃鉄を用いないストライカー式の撃発機構を採用している[8]。
外観は将校用として当時人気のあったブローニングM1910によく似ている[7]。ただし内部の銃身固定方法などがM1910とは異なり、内部構造はオルトギース拳銃に似ているとの指摘がある[8]。
本銃は陸軍に制式採用はされなかった[7]。「一式拳銃」という呼称も戦後のコレクターが便宜的につけた通称だと考えられる[7]。後述の二式拳銃の基礎となった。
二式拳銃
1942年(昭和17年)から進められた拳銃弾の統合計画(十四年式拳銃や九四式拳銃で使用されている8mm南部拳銃弾に統合する計画であった)に合わせて.32口径の一式拳銃から8mm口径に改良され、装弾数6+1発になった浜田式自動拳銃が二式拳銃である[9]。
軍の肝いりで始まった計画のため、陸軍第一技研小型銃器担当官であった谷戸賢二少佐が改良の指導にあたったと言われている[要出典]。グリップからトリガー周辺にかけてのレイアウトは一式拳銃と似通っているが、全体的な外観は大きく変更された。また遊底も大型化された。1943年昭和18年に完成した二式拳銃は開発中の秘匿名を「ハケ式」と呼んだ[7](ハは浜田式、ケは拳銃)。
同じ8mm南部弾を用いる九四式拳銃がショートリコイル方式を採用したのに対して、本銃はより簡素なシンプルブローバック方式を採用した[5]。ただし部品点数(42点)は九四式拳銃(41点)より多く、重量(794グラム)も九四式(765グラム)より重くなっている[5]。
前述の一式拳銃は制式採用されなかったが、この二式拳銃は制式採用された[2]。ただし軍の史料で確認できる本銃の記述は、『昭和20年度調達兵器』(アジ歴レファレンスコード:C12121803700)に「品目:九四式拳銃 / 員数:一〇、〇〇〇 / 摘要:二式拳銃ヲ含ム」とあるのが唯一である[10]。生産数は不明で、実戦投入された形跡もない[5]。現存する17丁[7]はいずれもブルーイングなどの表面仕上げがされていない半完成品である[7]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 杉浦久也『日本軍の拳銃』ホビージャパン〈ホビージャパンMOOK 878〉、2018年8月23日。ISBN 978-4798617510。「濱田式拳銃&二式拳銃」(100-111ページ)
外部リンク
- Japanese Hamada - ForgottenWeapons.com
固有名詞の分類
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