宗門人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 10:17 UTC 版)
1876年(明治9年)に数え9歳にして得度し、僧侶となった。以後、生まれた明泉寺の住職を務めた。1891年(明治24年)10月1日に井上円了が開いた哲学館(現在の東洋大学)に入学したが、半年後には中退している。1893年(明治26年)に大谷派の学階「擬得業」を授けられ、1895年(明治28年)に京都真宗大学専科(現在の大谷大学)に入学した。慈元の在学中の1896年(明治29年)には清沢満之、今川覚神、月見覚了、稲葉昌丸、清川円誠、井上豊中ら、東本願寺宗門内部の改進を目指した「白川党」の六人の僧侶に呼応した学生による同盟休校(ストライキ)が発生し、多田鼎、暁烏敏、佐々木月樵ら清沢満之から近代教学を学んだ学生らが参加しているが、慈元はこの運動には参加せず、以後も真宗近代教学からは距離を置いた伝統教学(江戸教学)の僧侶として活動した。卒業後、1898年(明治31年)に「学師補」、1904年(明治37年)に「学師」の学階を本山から授けられた。また、1901年(明治34年)には再び哲学館(現在の東洋大学)に入学するも、再び半年で除籍となった。しかしながら哲学館学長の井上円了は1905年(明治38年)3月に、慈元に対して第三回哲学館称号を授与し、この措置によって慈元は中退者でありながらも、哲学館卒業資格を認められたのであった。 1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけての日露戦争の際には、本山の布教使として東京市浅草区の浅草別院浅草本願寺に勤めた。日露戦争後、1909年(明治42年)に「権僧都」の学階を授けられた。 1917年(大正6年)には、出生寺院の明泉寺の寺格が「二等別助音地」に昇格し、同1917年12月22日に、第二十三代東本願寺法主、彰如から「彰」の字を下付され、出生名の慈元から彰元に改名した。その後も1923年(大正12年)に「稟授一級」、1927年(昭和2年)に「親授三級」、1932年(昭和7年)に「親授二級」を授けられ、着実に布教使としての階級を上げた。
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