宗閑寺の墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:52 UTC 版)
遺骸については、当初は戦死の場所である笹原新田に埋葬されたといい、慶長7年(1602年)に「一柳庵」という堂舎が建てられた。しかし、人家(路傍の茶店であったという)の背後にあって参詣に不便であるため、元禄11年(1698年)、小野藩主一柳末礼は、山中城三の丸跡に建てられていた宗閑寺に移葬した(宗閑寺は、間宮康俊の娘が建てた寺である)。寛政4年(1792年)には小野藩主一柳末栄・一柳末英によって墓の前に直末の事績を記した石碑が建てられ、1930年(昭和5年)には一柳貞吉らによって宗閑寺境内入り口に「山中城趾記念之碑」が建てられている。 一柳庵と直末の墓は上述の通り宗閑寺に移されたものの、これをめぐって笹原新田の村人と当時の宗閑寺住職(および山中新田の村人)との間に紛擾が生じた。跡地には、笹原新田の村人によって新たに一柳直末之墓という碑石が建立された。
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