反憲総路線と反憲的解釈改憲路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/10 03:14 UTC 版)
「反憲法学生委員会全国連合」の記事における「反憲総路線と反憲的解釈改憲路線」の解説
反憲学連の中核的戦略路線は、左・右からの護憲-近代化路線を克服する「反憲総路線」で、1973年(昭和48年)に採択された。 「右からの近代化」とは、確たる国家戦略もなきままに「自衛隊合憲論」等で占領憲法を現実的に解釈し、現実と憲法の矛盾を暫定的に埋めていきつつ、経済優先コースを進める自民党、財界による路線(ブルジョア・ヘゲモニー)である。当初「憲法改正」を志向した自由民主党は、岸内閣の終焉以降、国家主権に関する重大な案件を先送りし、永久繁栄の幻想に立った「大衆消費社会」を現出せしめるに至っている。 また、「左からの近代化」とは、「非軍事化」や「政教分離」、「人権条項の強化」等の点で憲法条文を左翼的解釈に基づいて実質化し、これを社会主義革命の手段とする路線(プロレタリア・ヘゲモニー)である。大内兵衛も「この憲法のもとでは社会主義の第一歩をあゆみ出すことは決して不可能ではない」と明言している。 「反憲総路線」は、これら左右からの護憲-近代化路線を根源的に克服し、伝統的憲法秩序を創出しようとするものであった。 1975年(昭和50年)には、戦略路線である「反憲総路線」の下に、更に戦術路線としての「反憲的解釈改憲路線」が採択された。これは、憲法には、憲法条文(=「法源としての憲法」)のほかに、その下にある一般法令などの「制度としての憲法」、更にそれらを支える様々な社会思想である「イデオロギーとしての憲法」が存在する(これらが合わさって広義の「憲法」を構成している)とし、これらを順次解体していく戦術である。 この路線は、民族派、愛国派の一部にあった「悲憤慷慨」的な改憲運動とは大きくその性格を異にしていた。すなわち、従来の民族派、愛国派の運動は、憲法が変わらなければ「首相の靖国参拝もできない」「自衛隊も違憲である」「天皇は元首でない」「大嘗祭も斎行できない」とし、現実的には不可能な憲法改正の即時実現を主張する極めて「原則主義」「待機主義」的な側面が強かったが、「反憲的解釈改憲路線」は、これらの運動とは政治的な力点の置き方が大きく異なっているのである。
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