反憲学連と全国学協とは? わかりやすく解説

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反憲学連と全国学協(撃攘派)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 06:54 UTC 版)

民族派学生組織」の記事における「反憲学連と全国学協(撃攘派)」の解説

反憲法学生委員会全国連合反憲学連)と学協(全国学生自治体連絡協議会中央執行部機関紙が『撃攘であったため、『撃攘』派とも呼ばれた)は元々全国学協という一つ組織であった。しかし、1973年昭和48年)に深刻な路線対立によって組織分裂その後お互いが自らを全国学協正統継承組織であると主張し対立関係にあった双方衝突した最後の事件記録は、1987年昭和62年8月である。これは昭和天皇初めての沖縄訪問予定されており、実現すれば昭和天皇日本全県訪問したことになるはずであった斯かる状況の下、長崎大学憲法学委員会長大反憲学連長大学協の反主流派)は、天皇沖縄訪問機に本土沖縄国民的連帯回復すべきである主張し長崎大学で「天皇陛下沖縄行幸奉迎推進学生決起集会」を開催した一方長崎大学学生協議会椛島立ち上げた従来からの長大学協。以降分裂前の学協と区別するため「学協『撃攘』派」と記す)のメンバー30名は、集会終了後抗議現れ、「沖縄日本ではないから天皇が行く必要はない」と主張した。 学協『撃攘』派の主張の背景には、次のような事情があった。沖縄は、日本中央から距離が遠いため、中央政府政治的な支配が及びにくく、長く琉球王朝がこの地を支配していた。そのうえ沖縄第二次世界大戦唯一地上戦体験し大きな惨禍を蒙ったため、県民本土人々との間には少なからぬ溝が存在する信じられていた。このため、「琉球沖縄)は日本ではない」「琉球沖縄)は日本から独立すべき」という主張が、新左翼各派革マル派を除く)などによって公然と主張されていたのである琉球弧人民解放論)。長大学協『撃攘』派の主張もこれとほぼ同趣であった機関紙撃攘』では、「同民族異文化間の問題」と少し慎重な表現使われているが、長崎大学学生主張は、それに比べてかなり大雑把であった)。 これに対し反憲学連側は、「琉球方言日本語以外いかなる言語にも分類できず、沖縄には東北地方方言同じく王朝時代日本語多く残されている」「沖縄の宗教日本古神道の形を残している」という点を挙げ沖縄日本一部であると反論した。そして「沖縄県民多く日本からの独立など望んでいない」、「明治国家成立の際に、天皇は単に大和民族象徴ではなくアイヌ沖縄含めた近代国家としての日本象徴元首)と再定義された」と主張し、学協『撃攘』派の主張を「祖国分断策動」と批判した結局この闘い痛み分けだったようだが、学協『撃攘』派側には軽傷者が出ている。 この闘争後、昭和天皇体調不良のため沖縄訪問急遽中止した。しかし反憲学連沖縄へ代表を派遣し県下7000世帯への家庭訪問実施代わりに訪問した当時皇太子明仁親王)の奉迎活動成功させている平成入ってからは、反憲学連、学協『撃攘』派双方ともその活動存在確認されていない全国学協分裂時の第二代学協中央委員長、吉田良二(北海道大学出身2005年8月死去)の葬儀には、学協OBや一会、対立関係にあった青協関係者数多く参列した

※この「反憲学連と全国学協(撃攘派)」の解説は、「民族派学生組織」の解説の一部です。
「反憲学連と全国学協(撃攘派)」を含む「民族派学生組織」の記事については、「民族派学生組織」の概要を参照ください。

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