反憲学連と全国学協(撃攘派)
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「民族派学生組織」の記事における「反憲学連と全国学協(撃攘派)」の解説
反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)と学協(全国学生自治体連絡協議会中央執行部。機関紙が『撃攘』であったため、『撃攘』派とも呼ばれた)は元々全国学協という一つの組織であった。しかし、1973年(昭和48年)に深刻な路線対立によって組織は分裂、その後はお互いが自らを全国学協の正統な継承組織であると主張し、対立関係にあった。 双方が衝突した最後の事件の記録は、1987年(昭和62年)8月である。これは昭和天皇の初めての沖縄訪問が予定されており、実現すれば昭和天皇は日本全県を訪問したことになるはずであった。斯かる状況の下、長崎大学反憲法学生委員会 (長大反憲学連。長大学協の反主流派)は、天皇の沖縄訪問を機に本土と沖縄の国民的連帯を回復すべきであると主張し、長崎大学で「天皇陛下沖縄行幸奉迎推進学生総決起集会」を開催した。一方、長崎大学学生協議会(椛島が立ち上げた従来からの長大学協。以降、分裂前の学協と区別するため「学協『撃攘』派」と記す)のメンバー約30名は、集会終了後に抗議に現れ、「沖縄は日本ではないから天皇が行く必要はない」と主張した。 学協『撃攘』派の主張の背景には、次のような事情があった。沖縄は、日本の中央から距離が遠いため、中央政府の政治的な支配が及びにくく、長く琉球王朝がこの地を支配していた。そのうえ沖縄は第二次世界大戦で唯一地上戦を体験し、大きな惨禍を蒙ったため、県民と本土の人々との間には少なからぬ溝が存在すると信じられていた。このため、「琉球(沖縄)は日本ではない」「琉球(沖縄)は日本から独立すべき」という主張が、新左翼各派(革マル派を除く)などによって公然と主張されていたのである(琉球弧人民解放論)。長大学協『撃攘』派の主張もこれとほぼ同趣旨であった(機関紙『撃攘』では、「同民族異文化間の問題」と少し慎重な表現が使われているが、長崎大学学生の主張は、それに比べてかなり大雑把であった)。 これに対し反憲学連側は、「琉球方言は日本語以外のいかなる言語にも分類できず、沖縄には東北地方の方言と同じく王朝時代の日本語が多く残されている」「沖縄の宗教も日本の古神道の形を残している」という点を挙げ、沖縄も日本の一部であると反論した。そして「沖縄県民の多くは日本からの独立など望んでいない」、「明治国家の成立の際に、天皇は単に大和民族の象徴ではなく、アイヌ・沖縄も含めた近代国家としての日本の象徴(元首)と再定義された」と主張し、学協『撃攘』派の主張を「祖国分断策動」と批判した。結局この闘いは痛み分けだったようだが、学協『撃攘』派側には軽傷者が出ている。 この闘争後、昭和天皇は体調不良のため沖縄訪問を急遽中止した。しかし反憲学連は沖縄へ代表を派遣し、県下7000世帯への家庭訪問を実施、代わりに訪問した当時の皇太子(明仁親王)の奉迎活動を成功させている平成に入ってからは、反憲学連、学協『撃攘』派双方ともその活動、存在が確認されていない。 全国学協分裂時の第二代学協中央委員長、吉田良二(北海道大学出身。2005年8月死去)の葬儀には、学協OBや一水会、対立関係にあった青協の関係者も数多く参列した。
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