開館までの沿革
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1961年(昭和36年)10月 - 第1回明治村設立準備委員会が行われる。名鉄が現在地の拠出を提案する。 1962年(昭和37年)1月 - 第3回明治村設立準備委員会が行われる。札幌電話交換局が移設第1号となることが決まる。 7月16日 - 財団設立。 10月 - 西郷従道邸、学習院長官舎、森鷗外・夏目漱石住宅、名古屋衛戍病院の移築が決まる。 1963年(昭和38年)4月25日 - 地鎮祭を行う。 10月 - 建物の移築を開始する。 1965年(昭和40年)3月18日 - 開館。
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開館までの沿革
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「東京都立第五福竜丸展示館」の記事における「開館までの沿革」の解説
日本の遠洋マグロ漁船であった第五福竜丸が1954年(昭和29年)3月1日、アメリカ軍のビキニ環礁における水爆実験(キャッスル作戦)による放射性降下物で被曝(被爆)する事件が起きた。無線長の久保山愛吉が後に死亡した。第五福竜丸の処遇についてアメリカ側は放射能除去後、船体を沈めて廃棄するよう主張したが、日本側は今後の資料として保存を主張、結局当時の文部省が船体を買い上げることで決着した。東京都港区の東京水産大学で約2年間、残留放射能の検査が行われた。安全が確認された後、三重県伊勢市大湊町の強力造船所(現・ゴーリキ)で改造が施された。甲板は張り替えられ、魚倉は大部分が学習室となり、船体は白く塗り直され、こうして第五福竜丸は東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として第二の道を歩むこととなった。約10年の間、学生の航海実習に使用された後、1967年(昭和42年)に廃船となった。エンジンは取り外され売却、貨物船に据付けられるが1968年に熊野灘、三重県御浜町沖でその船は沈没。元第五福竜丸の船体はその後、いくつかのスクラップ業者などを経て、夢の島に打ち棄てられた。このことが報道されると、地元江東区民の間から保存の声が上がった。やがて保存の気運は高まり、地元有志が船体を30万円で買い取り、日本各地で保存のための募金や署名活動が行われた。 1969年(昭和44年)、「被爆の証人第五福竜丸保存の訴え」が提出されるとともに第五福竜丸保存委員会が発足。東京都知事であった美濃部亮吉をはじめ各界の著名人が名を連ね、保存運動は広がっていった。その間に船名を「第五福竜丸」に戻す作業が行われるとともに、船体を美しくする集いや写生会、凧上げ大会、俳句会などが催された。 1973年(昭和48年)、船体の保存・管理を目的として財団法人第五福竜丸保存平和協会が設立された(1974年に第五福竜丸平和協会と名称変更)。船体は財団から東京都へ寄贈され、1976年(昭和51年)6月10日に原子爆弾・水素爆弾による惨事が二度と引き起こされることのないことを願いとして開館した。 1996年、12月、地元や全国有志の運動、募金などにより御浜町沖に沈んでいたエンジンが引き揚げられる。母港だった焼津などで一時展示されたあと、東京都が受け入れることとなり、2000年1月より展示開始。 老朽化した建物を補修するため2018年(平成30年)7月に一時休館し、2019年(平成31年)4月2日に再開。元乗組員の証言や、船内の3D映像を見られるようにするなど展示を拡充した。
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