開館まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:06 UTC 版)
「民芸運動」および「柳宗悦」も参照 日本民藝館の創設者である柳宗悦は、日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、木喰(もくじき)の仏像など、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、西洋的な意味でのファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努め、「民藝運動」を創始した[要出典]。
※この「開館まで」の解説は、「日本民藝館」の解説の一部です。
「開館まで」を含む「日本民藝館」の記事については、「日本民藝館」の概要を参照ください。
開館まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 05:02 UTC 版)
1950年(昭和25年)、千葉県は県史の編纂事業を企画し、史料編『千葉県史料』の編纂を開始した(1990年度までに通史『千葉県史』2巻と『千葉県史料』33巻を刊行)。1966年(昭和41年)、当初の編纂計画がほぼ終了した段階で、知事から千葉県史編纂審議会に対して今後の編纂計画に関する諮問がなされた。これに対する答申の中で「史料の収集、整理、保管のために機関設置の必要がある」とされたのが、千葉県文書館設立の発端とされる。 1972年(昭和47年)4月、文書保存施設建設のための調査費が計上され、同年6月28日、「千葉県総合文書資料館建設調査委員会」が発足した。委員長には県総務部長の沼田武(のち県知事)が就任した。 1973年(昭和48年)2月27日には「千葉県立文書館基本構想」が決済を受け、4月13日には千葉県総合文書資料館建設調査委員会が千葉県立文書館建設調査委員会と改称した。6月5日には建築用地が千葉市都町1-4に内定、1974年(昭和49年)3月には建築設計が完了した。ところが、1973年に起こった石油ショックのため、事業はいったん中断された。 1983年(昭和58年)6月6日、沼田武千葉県知事が、文書館設置の再検討を求めた。この際、知事は、建物については旧構想にこだわらないこと、県庁舎の近くに設置することを求めている。建設予定地については知事の提案により、旧千葉中央警察署跡地を利用することが決定された。9月24日、検討結果報告書がまとめられた。1984年(昭和59)4月1日、千葉県立文書館建設調査委員会が再発足、11月9日、文書館基本計画が決定された。呼称については「文化資料館」を推す意見もあったが、親しめる施設をめざすという観点から「文書館(ぶんしょかん)」の呼称で決定された。 設計者選定にあたっては、千葉県の事業としては初めてプロポーザル方式が導入され、建物本体については梶建築設計事務所、1階情報提供展示コーナー(情報広場)については丹青社が選定された。なお、丹青社の設計は、1988年の日本ディスプレイデザイン協会の奨励賞を受賞している。 1986年(昭和61年)8月9日に特殊基礎(杭打ち)工事が着工され、10月16日から本体工事が着工された。 1987年(昭和62年)12月21日に千葉県文書館設置管理条例、1988年(昭和63年)4月1日に千葉県文書館管理運営規則がそれぞれ公布され、ともに1988年6月15日より施行された。 1988年6月15日、開館。公文書館法施行(1988年6月1日)後、最初に開館した公文書館である。
※この「開館まで」の解説は、「千葉県文書館」の解説の一部です。
「開館まで」を含む「千葉県文書館」の記事については、「千葉県文書館」の概要を参照ください。
開館まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 16:41 UTC 版)
「日比谷図書文化館」も参照 東京都立図書館の淵源は、直接的には1908年(明治41年)に開館した東京市立日比谷図書館にあるとされる。 帝国図書館の前身にあたる書籍館(しょじゃくかん)が東京府に移管され、1878年(明治11年)から3年余りの間東京府書籍館として運営された時期もあるが、東京で公立図書館が設置されたのは20世紀に入ってからであり、主導的な役割を果たしたのは東京市(現在のほぼ東京23区に相当)であった。 1898年(明治31年)に市制特例が廃され一般市制が布かれるまで、東京市には独自で図書館を設置する財政力も体制も整っていなかったとされ、東京市に公立図書館を設置すべきであるとする議論が起こるのはそれ以降となるのだが、1899年(明治32年)には東京市により図書館設置調査が着手されており、同年には図書館令も公布されていた。 1902年(明治35年)には私立の大橋図書館が開館して多くの市民に利用されており、市の図書館設置に向けた機運も高まっていて、1904年(明治37年)大橋図書館の理事でもあった東京市会議員坪谷善四郎らによって提出された通俗図書館の設置の建議は議会で満場一致をもって迎えられた。 日露戦争の勃発により計画は一時中断されるものの、尾崎行雄市長の主導の下市立図書館設置が推進され、1908年(明治41年)ようやく日比谷図書館が開館するに至った。
※この「開館まで」の解説は、「東京都立図書館」の解説の一部です。
「開館まで」を含む「東京都立図書館」の記事については、「東京都立図書館」の概要を参照ください。
- 開館までのページへのリンク