開館と焼失とは? わかりやすく解説

開館と焼失(1944-1945)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 21:00 UTC 版)

水戸市立図書館」の記事における「開館と焼失(1944-1945)」の解説

水戸市には1903年明治36年2月設立1904年明治37年4月26日開館茨城県立図書館が既に存在していたが、水戸市立図書館1944年昭和19年10月1日設立された。設立契機となったのは、1938年昭和13年)に設立され水戸藩産業史研究会が、母体とする茨城農工銀行日本勧業銀行への合併により同研究会活動困難になったことであった研究会では水戸藩産業経済研究しその事績学ぼうという趣旨設立されたため、水戸藩に関する資料多数収集しており、自らの研究成果をまとめた会報発行していた。しかし、研究会母体である茨城農工銀行合併により消滅することが決まったことから、研究会活動困難となり、収集した資料寄贈市立図書館建設水戸市当局申し入れ茨城農工銀行建設促進のため10万円を寄付した。これを受けて水戸市会は1944年昭和19年9月29日図書館新設のための補正予算などを可決し、翌9月30日には茨城県知事今井久)から図書館設立認可得て、さらに翌10月1日時の市長渡辺覚造館長とし、研究会職員であった2名を書記任命して水戸市立図書館設置した。この設置日は組織としての図書館の設置なされた日で、実際開館はこれより後である。 館舎柵町三丁目23番地(現・三の丸二丁目2番29号)にあった旧・水戸国民勤労動員署(元・水戸市職業紹介所)として利用されていた1922年大正11年)築の建物転用した。開館当初蔵書数は3,500程度であったという記録があり、うち800余冊は市民からの寄贈であった市立図書館設置きっかけ作った水戸藩産業史研究会からは当初1万冊が寄贈されるはずだったが実際にはその一部とどまり残り常磐神社彰考館へも寄贈されている。 1945年昭和20年4月15日図書館2階にて70人が出席して正式な開館式が挙行され、翌4月16日より一般向けに閲覧貸出業務開始した。しかし時は太平洋戦争末期で、日本各地都市空襲を受ける状態であったため、7月12日閉館し蔵書疎開始めた。3か月弱の開館期間中に5,425人が来館し閉館時点で4,867冊を所蔵していた。図書疎開先は東茨城郡沢山村(現・同郡城里町)と久慈郡大子町で、どちらへも鉄道疎開させたものとみられる。ただし疎開できたのは1,500冊ほどにすぎず、蔵書多く8月2日水戸空襲館舎もろとも焼失した1945年昭和20年)の『水戸市事務報告書』では蔵書焼失の件について「遺憾ミナリ」と記している。同じ水戸市にあった茨城県立図書館水戸空襲蔵書館舎失っている。

※この「開館と焼失(1944-1945)」の解説は、「水戸市立図書館」の解説の一部です。
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