開館と焼失(1944-1945)
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「水戸市立図書館」の記事における「開館と焼失(1944-1945)」の解説
水戸市には1903年(明治36年)2月設立、1904年(明治37年)4月26日開館の茨城県立図書館が既に存在していたが、水戸市立図書館は1944年(昭和19年)10月1日に設立された。設立の契機となったのは、1938年(昭和13年)に設立された水戸藩産業史研究会が、母体とする茨城農工銀行の日本勧業銀行への合併により同研究会の活動が困難になったことであった。研究会では水戸藩の産業・経済を研究し、その事績に学ぼうという趣旨で設立されたため、水戸藩に関する資料を多数収集しており、自らの研究成果をまとめた会報を発行していた。しかし、研究会の母体である茨城農工銀行が合併により消滅することが決まったことから、研究会は活動困難となり、収集した資料の寄贈と市立図書館の建設を水戸市当局に申し入れ、茨城農工銀行は建設促進のため10万円を寄付した。これを受けて水戸市会は1944年(昭和19年)9月29日に図書館費新設のための補正予算などを可決し、翌9月30日には茨城県知事(今井久)から図書館設立の認可を得て、さらに翌10月1日に時の市長・渡辺覚造を館長とし、研究会の職員であった2名を書記に任命して水戸市立図書館を設置した。この設置日は組織としての図書館の設置がなされた日で、実際の開館はこれより後である。 館舎は柵町三丁目23番地(現・三の丸二丁目2番29号)にあった旧・水戸国民勤労動員署(元・水戸市職業紹介所)として利用されていた1922年(大正11年)築の建物を転用した。開館当初の蔵書数は3,500冊程度であったという記録があり、うち800余冊は市民からの寄贈書であった。市立図書館設置のきっかけを作った水戸藩産業史研究会からは当初1万冊が寄贈されるはずだったが実際にはその一部にとどまり、残りは常磐神社や彰考館へも寄贈されている。 1945年(昭和20年)4月15日、図書館2階にて70人が出席して正式な開館式が挙行され、翌4月16日より一般向けに閲覧・貸出業務を開始した。しかし時は太平洋戦争末期で、日本各地の都市が空襲を受ける状態であったため、7月12日に閉館し、蔵書の疎開を始めた。3か月弱の開館期間中に5,425人が来館し、閉館時点で4,867冊を所蔵していた。図書の疎開先は東茨城郡沢山村(現・同郡城里町)と久慈郡大子町で、どちらへも鉄道で疎開させたものとみられる。ただし疎開できたのは1,500冊ほどにすぎず、蔵書の多くは8月2日の水戸空襲で館舎もろとも焼失した。1945年(昭和20年)の『水戸市事務報告書』では蔵書焼失の件について「遺憾ノ極ミナリ」と記している。同じ水戸市内にあった茨城県立図書館も水戸空襲で蔵書と館舎を失っている。
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