開館と3館体制の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/25 08:28 UTC 版)
「新橋文化劇場」の記事における「開館と3館体制の時代」の解説
第二次世界大戦終結から10年が経過した1955年(昭和30年)、東京都港区芝新橋3丁目6番地(現在の新橋3丁目25番19号)の新橋駅ガード下に、蔡火盛が新橋ニュース劇場として開館した。同館の公式ウェブサイト等では「昭和32年」(1957年)に開館したとしているが、1956年(昭和31年)に発行された同時代資料である『映画年鑑 1956 別冊 映画便覧』には、すでに同館は掲載されており、これは前年の「1955年秋」までに確定した情報である。同書によれば、同館の経営は蔡火盛の個人経営、支配人は滝沢恵吉、観客定員数88名と当時としては小規模な映画館であり、ニュース映画・短篇映画の専門館であった。同館が開館する前年、1954年(昭和29年)の新橋駅近辺には、戦前からの新橋キネマ(芝新橋5丁目10番地)、芝園館(芝新堀町39番地)および飛行館ホール(戦前の日比谷日活館、のちの飛行館名画座、芝田村町1丁目4番地)、駅の地下にあった新橋メトロ映画劇場(芝新橋2丁目8番地)が存在した。 『映画年鑑 1956 別冊 映画便覧』によれば、同館の開館と同年に、同館と同一の経営者(蔡火盛)、同一の支配人(滝沢恵吉)によって、大田区池上徳持町72番地1号(現在の池上6丁目近辺)、池上駅のすぐ前に池上映画劇場(木造一階建、観客定員数320名、東映系)が開館している。池上映画劇場は、プロボクサー斎藤清作としてデビューする前のたこ八郎が上京後最初に勤めた宝石店「銀水堂」(銀座6丁目)の系列にあって、宝石店から配転された先の映画館として知られる。「銀水堂」を経営した蔡火欽は台湾出身で、1957年(昭和32年)6月までの時点では、同宝石店や同館のほか芝田村町(現在の西新橋)に旅館を経営していたという。蔡火欽、蔡火盛の両名は、1968年(昭和43年・民國57年)に台湾・彰化県彰化市の国民小学である彰化県立中山国民小学に図書館を寄贈しており、1991年(平成3年・民國80年)7月22日、同校に「校友蔡火欽獎學金」を設立した人物として記録されている。 ニュース劇場開館の翌年、1956年(昭和31年)には、同館の並び、同じくガード下に新橋文化劇場(観客定員130名)を併設・開館した。この時期にはすでにニュース劇場は洋画、文化劇場は日本映画のそれぞれ封切りから数番落ちの作品の上映館になっており、同館が発行した『新橋ニュース劇場プログラム』には洋画の解説と予告、裏面には『新橋文化劇場ニュース』が刷られていた。同プログラムによると、1957年(昭和32年)ころにはニュース劇場では『渡洋爆撃隊』(監督マイケル・カーティス、製作1944年、日本公開1951年8月7日)、『ミズーリ大平原(英語版)』(ジェリー・ホッパー(英語版)、製作1953年、日本公開1954年4月23日)がそれぞれ週替わりの一本立興行、新橋文化劇場では『てんてん娘に花が咲く』(監督青柳信雄、製作宝塚映画製作所、配給東宝、1956年12月12日公開)と『任侠清水港』(監督松田定次、製作東映京都撮影所、1957年1月3日公開)の二本立番組が、同時期に上映されている。 1961年(昭和36年)には、前述の2館と並びの同じくガード下に新橋第三劇場を併設して3館体制になった。ニュース劇場は洋画、文化劇場・第三劇場は日本映画を上映した。1964年(昭和39年)に発行された『映画年鑑 1964 別冊 映画便覧』からは、同館の経営者が、開館から前年までの蔡火盛に代って東和企業と記載されるようになった。1963年(昭和38年)12月25日付の宮本常一の日記には「新橋文化へ『にっぽん昆虫記』を見にいく」との記述があり、同年11月16日に封切られた同作(監督今村昌平、製作日活)が5週間遅れで上映されていた。1965年(昭和40年)7月1日、住居表示が実施され、同館の所在地が新橋3丁目25番19号になる。同館と同一の経営であった池上映画劇場は、同年には閉館している。この時期のニュース劇場(観客定員数150名)は洋画特選、文化劇場(観客定員数140名)は松竹・東映・日活の特選、第三劇場(観客定員数120名)は東宝の作品を上映していた。田沢竜次によれば、1960年代においてもニュース劇場は旧作洋画の一本立興行であったという。
※この「開館と3館体制の時代」の解説は、「新橋文化劇場」の解説の一部です。
「開館と3館体制の時代」を含む「新橋文化劇場」の記事については、「新橋文化劇場」の概要を参照ください。
- 開館と3館体制の時代のページへのリンク