開館の経緯(1991-1995)
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「川上村文化センター図書館」の記事における「開館の経緯(1991-1995)」の解説
葉菜類の栽培が盛んな川上村では、生産性の高い農業の実現により経済的に豊かな家庭が増加したものの、農村本来の人情などの「心の豊かさ」が失われてしまったのではないかと危惧する村民が多くなり、文化的なものを渇望するようになった。こうした折にふるさと創生事業で日本国から1億円が交付されることになり、村では「ふる里村塾」と称する文化事業を開始した。ふる里村塾は、小椋佳らを招いてコンサートや講演会を開催するというもので、村民から好評を得たが、会場は小中学校の体育館や福祉センターの講堂だったため、音響や照明、空調が不十分であり、多目的ホールの建設を求める声が高まっていった。 時を同じくして、柏崎刈羽原子力発電所からの高圧電線が村内を横断することになり、その補償金として10数億円が村にもたらされた。村ではこの補償金を、送電線による野菜への被害があった場合に備えて基金化し、残った分で総合文化施設を建設するための教育施設整備基金を積み立てることにした。1991年(平成3年)2月1日、川上村総合文化施設基本構想策定委員会が発足し、「理想的なものを造る」を第一に、建設費は二の次にという方針の下、1992年(平成4年)5月1日に委員会は総合文化施設の基本構想を答申した。この中で施設内に図書館を置くこと、その図書館は24時間利用できるようにすることが盛り込まれた。川上村を経済的に豊かな村にした立役者である村長の藤原忠彦は、レタス栽培による好景気がいつか終わるかもしれないと考え、そうなったときに正しく村を導ける「賢い村人」を育てるためにも図書館が必要であるとした。 村役場企画課では基本構想を具現化するために奔走することになった。構想では1つの施設に図書館、歴史民俗資料や美術品の収蔵展示施設、コンサートホール、ハイビジョンシアター、茶室、談話室などを置くことが示されており、前代未聞の複合施設建設のために3つの建設推進委員会による検討とプロポーザル方式による基本設計を実施した。プロポーザルは1993年(平成5年)1月から2月にかけて複数回行われ、最終的に山下設計の案が採用された。図書館部分については、24時間開館を実現するための図書館資料の管理方法、無人時間帯の入退館・貸し出し方法、光熱費の節約方法が検討された。 1993年(平成5年)6月、山下・団設計JVと設計・監理の委託契約を締結し、同年12月末に起工式を挙行した。図書館管理システムの工事は富士通長野支社が受注し、1994年(平成6年)2月18日から1995年(平成7年)3月25日まで行われた。当初、建設費は先述の教育施設整備基金と地方債を充当する予定であったが、農林水産省から補助金が得られることになり、最終的に約25億3300万円の補助が得られた。
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開館の経緯
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2006年1月1日、当時ACM 1として知られていた博物館は、アルメニアン通りのウィングの大規模な改修のため閉鎖された。閉鎖の際に博物館の運営陣は、旧道南学校のスペースの新しいショーケースについて、子ども博物館や中国陶器博物館よりもプラナカン文化をテーマとすることを選択した。このことにより、プラナカンの芸術作品や陶器を収集する特徴的で包括的な、年間11万2,000人の来場客を集める博物館となった。またこの改修によって展示スペースが25パーセント拡大し、プラナカンの家庭や生活の多様な側面を異なる文脈から展示することが可能となった。さらに、建物に隣接する4軒のショップハウスを、プラナカンをテーマとする食堂や店舗とする計画も含まれている。 プラナカンの生活をテーマとする10の常設ギャラリーを持つ同博物館は、2008年4月25日に正式に開館した。同博物館の中心的な展示物はプラナカンのウェディング・ベットで、これはかつてペナン島出身のクア・ホンチアム夫人 (Quah Hong Chiam) が所持していたものである.。
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開館の経緯
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静岡市歴史博物館がある葵区は、北部は南アルプスの山々が連なり、谷間には温泉が点在し、南部の狭い平野部に人口のほとんどが集中し、駿河区と静岡市の中心市街地を形成し、静岡県の政治経済の中心地となっている。その南部は、今川時代から駿河地域の中心であり、徳川時代には徳川家康が大御所政治を行った駿府城が築かれ、徳川政権の事実上の副都として機能した駿府城の一丁四方に区画された町割りは、現在においても当時のものとほとんど変わっていない。 静岡市の歴史系博物館には、公立の静岡市立登呂博物館や静岡市文化財資料館(静岡浅間神社境内、2021年〈令和3年〉12月26日閉館)、私立の久能山東照宮博物館やフェルケール博物館などはあるが、静岡市の歴史や文化を整理し説明する施設がなかった。市民からも、静岡市の歴史や文化についての展示や紹介する博物館を希望する声が高まっていた。 1990年(平成2年)代、静岡市は市の持つ豊かな歴史と文化を十分に活かし、「歴史文化から静岡の未来をつくる」という基本理念のもと、「世界に輝く静岡」の願いを叶えるため、歴史文化の拠点となる歴史文化施設の建設構想に手を付けたことに始まる。 歴史博物館構想は、その動機となったのがNHK大河ドラマ『徳川慶喜』を契機とした徳川慶喜ブームであり、その背景には静岡市で郷土の歴史を改めて見直し、また文化をより振興させたいとの声が高まっていたからだった。静岡市文化財協会では、歴史ブームにあやかりたいと歴史博物館の早期建設を要望していた。 県内では大河ドラマからの慶喜ブームが継続し、慶喜展が開催されるなど、これからも企画展などのイベントの開催が期待されていた。イベントの「徳川慶喜と明治の静岡」推進協議会は、研究会などを開催するなど活発な活動を行い、歴史の新たな掘り起こしに力を入れていた。そして、大きな建設目的として「歴史探究」「地域学習」「観光交流」を施設の役割として掲げた。 静岡市文化財協会は、「静岡市の歴史を発信することが大切」だとして、総合歴史博物館の建設を希望した。会長は「静岡市の埋蔵文化財を展示し、歴史を研究する施設が必要」と表明した。また協会は、2000年(平成12年)に日本放送協会が徳川家康から将軍三代をテーマにした大河ドラマ「葵 徳川三代」を放映することから博物館が必要であるとした。 2021年(令和3年)1月19日、NHK大河ドラマ第62作『どうする家康』の制作発表が行われ、2023年(令和5年)から放送予定であることが決まった。室町時代後期から江戸時代を舞台に徳川家康が描かれる。今川の人質として駿府で過ごした幼年期、戦国時代の1585年(天正13年)駿府城築城、1590年(天正18年)駿府から江戸に移り、江戸時代の1607年(慶長12年)駿府城の大改修などの壮年期、晩年は65歳から亡くなる75歳までの約10年間を駿府で過ごした。
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開館の経緯
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名古屋市の地域の婦人団体が中心となり、1947年(昭和22年)から婦人教育専門の施設設置を求める運動が始まった。婦人会館建設のための募金活動の結果、1960年(昭和35年)に寄付総額1300万円を名古屋市に納めることができ、名古屋市教育館の6階に「婦人教育センター」を開設することができた。 その後も設備やスペースの充実を訴える市民からの要求は続き、小規模婦人グループが学習する場の確保に苦労する状況もあったことからも社会教育施設の開館を求める声は高まっていった。1973年(昭和48年)には地域の婦人団体・クラブ婦人団体を中心に婦人会館設置を求める署名運動が始まり、同年12月20日に署名8万筆を名古屋市に提出した。1974年(昭和49年)2月1日に名古屋市会において請願は採択された。 1975年(昭和50年)に建設に向けた調査委員会が設置。その中で、名古屋市中区大井町にある名古屋市大井プール跡地に婦人会館を建設し、屋上にプールを開設する案が出された。設計プランの検討は、婦人団体にも開かれた形で議論され、市民参加による施設づくりは、当時の名古屋市では画期的なものであった。婦人会館設立を進めた社会背景には、1975年(昭和50年)の国際婦人年を機に女性に対する政策の充実が進んだことがある。名古屋市でも、女性のための福祉向上の目的で、1975年(昭和50年)に名古屋市勤労婦人センターが開館、名古屋市婦人会館と続き、女性の学習や交流の機会を公的に保障する取り組みが進んだ。
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開館の経緯
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呉市が造船業不況による経済停滞からの脱却を模索していた1980年代初頭、広島県は県立博物館建設を検討していた。1980年度より呉市も県に対して市内での県立博物館設置要望を出すようになった。この頃は「海に関する県立博物館」という構想であった。1990年度 - 1991年度にかけて呉市から業務委託を受けた財団法人日本博物館協会が博物館基本構想を策定し、「近代造船技術の進展」を展示する博物館が提唱された。こうして1991年度より資料収集・調査研究が開始された。 1993年11月、呉市長に前広島県副知事の小笠原臣也が就任する。小笠原は松山市助役を務めていたころ、同市の子規記念博物館設立にかかわった経験があり、文化行政のノウハウを理解していた。また、同博物館の資料を調べる際、司馬遼太郎『坂の上の雲』などで自らの出身地・呉の「軍都」としての歴史を再確認していた。そのため、小笠原は積極的に博物館建設を推進していく。 1994年 - 1995年にかけて、戦艦大和を博物館の核としていくことに構想が固まっていった。しかし、県側は(海)軍事色が強い博物館を県立として開館することは難しいことを呉市に伝えた。そこで小笠原は1996年12月の市議会で、博物館建設に市主体で取り組むことを正式に表明した。1997年に呉市は主要プロジェクトの1つとして海事博物館建設を明記し、同年9月の市議会で呉駅南側の宝町地区を博物館の建設場所とすることが表明された。財源は国(防衛施設庁・科学技術庁)・県への働きかけに加え、呉市博物館推進基金、呉商工会議所の募金委員会などを設立し民間資金の活用も行われた。最終的に事業費総額65億円のうち、国・県・地方交付税・募金等が約36億円、市負担が約29億円となった。 1999年10月 - 12月に呉市が博物館設立準備として設置していた収蔵仮展示施設で「戦艦大和展」が行われた。これには3カ月で累計1万人を超える来館者が訪れた。2000年大阪で開催された関西ミュージアムメッセで呉市が参加した戦艦大和関連の展示には、4日間で1万2000人以上が訪れ、そのアンケート結果(1300件分)では「印象に残った出展ブース」の第1位となった。 2003年初頭、広報活動の一環として名称募集を行い,同年8月に正式名称を「呉市海事歴史科学館」、愛称を「大和ミュージアム」とすることが公表された。 2005年1月、ガイドボランティアが組織された。マスコミの関心は高まっており、2005年3月の定例市議会では、入館者数の予想を当初の20万人から40万人へ引き上げられた。ただしこれらは、反対意見を抑えるための多めの見積もりであったと、小笠原らが後に明かしている。2005年4月23日、開館を迎えた。
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開館の経緯
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「新潟市新津鉄道資料館」の記事における「開館の経緯」の解説
新津市(現:新潟市秋葉区)の新津車両所(新津車両製作所→現:総合車両製作所新津事業所)の敷地脇に所在した、新潟鉄道病院・新津分室が1982年(昭和57年)3月を以って廃止されたのに際して、「鉄道の町・新津市の鉄道文化を後世に伝承したい」として日本国有鉄道の職員OBや鉄道ファンなどが中心となって、鉄道を題材とした資料館の設置を求める動きが起こり、当時の新津市が旧分室の施設を活用して1983年(昭和58年)10月14日(鉄道記念日)、「新津市鉄道資料館」として開館した。開館に際し、国鉄OBを中心とした市民から数多くの資料提供を受け、当時の資料数は静態保存車両を含め約2,000点を有した。 その後国鉄が1966年(昭和41年)7月、新潟市下所島(現:中央区幸西)から新津市 西金沢(新津市 東町を経て、現:新潟市秋葉区新津東町)へ移転した国鉄職員の訓練施設「新潟鉄道学園」が、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際して廃止・閉鎖された後、1997年(平成9年)4月に新津市が施設を買収し公民館施設へ転用されることになり、施設名称を「新津地域学園」とした。加えて鉄道資料館も旧施設の老朽化などから地域学園の別棟へ移転するに至り、1998年(平成10年)4月1日に開館した。この際に静態保存車両は東日本旅客鉄道(JR東日本)へ返却されたが、この移転時にも市民から数多くの資料提供を受けた。 また、2005年(平成17年)3月21日に新津市が新潟市へ編入合併されたことに伴い、地域学園は「新潟市新津地域学園」に改称し、鉄道資料館も現名称に改称した。後述するリニューアル事業着手前の2012年(平成24年)時点において約8,600点の資料を所蔵していた。
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開館の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 03:23 UTC 版)
創立者岡田茂吉は、「優れた美術品には、人々の魂を浄化し、心に安らぎを与え、幸福に誘(いざな)う力がある」と考えていた。「美術品は決して独占すべきものではなく、一人でも多くの人に見せ、娯しませ、人間の品性を向上させる事こそ、文化の発展に大いに寄与する」との信念のもと、戦後、東洋美術の優品の蒐集につとめ、海外への流出を防ぎ、1952年(昭和27年)6月15日に神奈川県箱根町強羅に箱根美術館を開館、9月15日に財団法人東明美術保存会(現在は公益財団法人岡田茂吉美術文化財団)を設立した。 その後、岡田の「熱海にも世界的な美術館を建設し、日本の優れた伝統文化を世界の人々に紹介したい」との願いを継承して、1957年(昭和32年)1月1日、熱海市に熱海美術館を開き、岡田の生誕100周年にあたる1982年(昭和57年)を機に、現在のMOA美術館が開館した。 現代美術作家・杉本博司と建築家・榊田倫之が主宰する「新素材研究所」の監修で特殊なガラスケースを使って作品との仕切りを意識させないように改修し、2017年(平成29年)2月5日に新装開館した。
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開館の経緯(-1986)
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「筑西市立図書館」の記事における「開館の経緯(-1986)」の解説
明野町立図書館の開館前には公民館図書室が図書館機能を代行していたが、年間貸出冊数は1,000冊程度であった。図書館設置の契機となったのは、1980年(昭和55年)に当時の明野町が総合振興計画策定のために行った住民アンケートの中に「図書館がほしい」という意見が1件あったことである。当時の県西地区には下館市立図書館があるのみでその存在すら知らぬ明野町民もいる状況で、行政当局はこの意見を汲み、1981年(昭和56年)9月の明野町議会で図書館建設を含んだ総合計画が議決された。 実際に図書館建設に向けて動き出したのは1985年(昭和60年)4月1日のことで、同日付で「図書館準備室」が役場に置かれ、三輪巴が室長に任命された。三輪は館長候補として司書資格を取得するために図書館情報大学(現・筑波大学)に通う傍ら、図書館設計にも参与した。設計においては延床面積700m2の2階建ての素案をワンフロアの1,200m2に改め、130m2の児童室を確保した。ワンフロア化したのは障害者も健常者も利用しやすいこと、2階建てよりも建築費を抑制できること、2階建てにした場合に発生する階段や通路部分の面積を「無駄」と判断したことにある。計画が進行する中で、「税金の無駄遣い」や「図書館を造って誰が本を読むのか」と公言する町民も存在したが、こうした意見を述べていた町民も開館後には翻意し、過去の笑い話として語るようになった。
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開館の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:22 UTC 版)
建物は1928年(昭和3年)10月に亀城尋常高等小学校(現在の刈谷市立亀城小学校)の本館として建設されたものである。校舎としては老朽化が進行したことから、1974年(昭和49年)には新校舎が建設され、1977年(昭和52年)には特別教室棟が完成し、その後は全く使用されていなかった。刈谷市はこの建物の取り壊しを計画したが、卒業生や文化人などが保存運動を展開し、資料館としての保存が決定した。 保存が決定した際には具体的な展示物は決まっていなかったが、市民からは相次いで農具・柱時計・ランプなどの民具が寄贈された。1979年(昭和54年)1月には改装工事に着工し、1979年度いっぱいで展示品の整理などを行った。資料館の開館には事業費7500万円が投じられている。
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開館の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:45 UTC 版)
「三重県立熊野古道センター」の記事における「開館の経緯」の解説
熊野古道伊勢路は伊勢神宮と熊野三山を結ぶ道として庶民に利用されてきたが、鉄道や自動車通行可能な道路の整備に伴って忘れ去られた道となった。こうした情勢で、1970年代頃より一部の地域住民が山中に埋もれた古道の掘り起こしや古道ウォーキングなどの活動を開始した。その活動者の中に、後にNPO理事長として熊野古道センター長を務めることになる花尻薫がいた。一方、尾鷲市のある東紀州は典型的な過疎地域であり、三重県北部と比較すると経済格差が大きく生活基盤施設の整備が遅れ、「南北問題」と称されている。三重県は1997年(平成9年)に東紀州の活性化に向けた構想を発表し、紀北にPFIを利用した海洋深層水の利用施設を、紀南にゴルフ場を建設する計画が立案された。紀南の構想は進んだものの、紀北の海洋深層水事業は需要見込みが不透明で採算性に難があったために頓挫し、それに代わるものとして提案されたのが「熊野古道センター」であった。この頃より住民活動であった熊野古道の保存に行政が関与するようになり、1999年(平成11年)に開催された東紀州体験フェスタを契機として熊野古道への一般市民の関心が高まっていった。東紀州体験フェスタは約6万人を熊野古道に集客しただけでなく、後に世界遺産となる部分の古道の修復が進むこととなった。 2001年(平成13年)3月14日の三重県議会生活振興常任委員会の場で、初めて熊野古道センター構想が発表され、当初は博物館機能を持った、熊野古道を訪れる人のための休息・宿泊施設とする計画であった。建設にはPFI導入を視野に入れていることやレストラン・温浴施設を併設することも合わせて公表された。 熊野古道センターの開館を前にして、2004年(平成16年)7月7日に熊野古道伊勢路が紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産に登録された。その少し前の2004年(平成16年)2月に熊野古道センターの設計が始まり2005年(平成17年)3月に完了、続いて2005年(平成17年)8月に着工した。 2006年(平成18年)10月に4団体の中から指定管理者として特定非営利活動法人熊野古道自然・歴史・文化ネットワークが選定された。2007年(平成19年)2月10日、三重県立熊野古道センターが開館した。開館イベントでは200人でテープカットが行われた。開館から1か月弱で入館者数1万人を突破した。また同年4月28日には夢古道おわせが開業した。
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開館の経緯
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創設者の山口伸廣は、貧しい家庭環境で育ったが、小学校の美術の先生にある日、作品を「上手いな。」でなく「面白いな。」と評価されたことを機に美術への興味を持つようになった。その後、自身でも芸術の創作活動をするも、本業としての芸術家は断念。実業家として才能を開花させ、経営者としての道を歩む。その後、「自分は芸術家の才能は無いが、芸術家を応援することはできる。」と、経営者を務めながら、国内外のアーティストを支援することを志す。 2007年1月、湯河原に人間国宝美術館を創設。陶芸・人形・漆芸・金工・染織作品などを中心とした美術館で、特に人間国宝の茶器で抹茶を飲むことができるという、他に類を見ないサービスが話題となった。 2015年、国内外のアート作品を募集したアートの祭典、「アートオリンピア」を主催。応募国は1回の開催に対し、約100カ国にのぼる世界最大級の参加国規模を誇る。以降、隔年ごとに開催されている。「世界のアーティストを発掘し、その活動を支援すること」をコンセプトとし、審査員は国際的な美術関係者で構成。過去の審査員には、第22代文化庁長官の宮田亮平、画家の千住博、海外からはガゴシアンギャラリーディレクターのキャラ・ヴァンダー・ウェグ、イサム・ノグチ庭園美術館館長のブレット・リットマン、三菱一号館美術館初代館長を務めた高橋明也などらが務めた。この時から本格的にアーティストを支援することへの体制と構想が整い始める。 2017年6月、岡山県備前市穂浪にてFAN美術館を設立。藤原啓記念館の同敷地内に併設する形で開館した。 2020年12月18日、地元タクシー会社の事務所などが入っていたビルの一、二階を改修し熱海山口美術館を設立。今までの美術館設立の経験と、アートの祭典主催の経験を活かし、「学べる美術館」をコンセプトに掲げている。
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