開館の経緯とは? わかりやすく解説

開館の経緯(1991-1995)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/25 14:18 UTC 版)

川上村文化センター図書館」の記事における「開館の経緯(1991-1995)」の解説

葉菜類栽培盛んな川上村では、生産性の高い農業実現により経済的に豊かな家庭増加したものの、農村本来の人情などの「心の豊かさ」が失われてしまったのではないか危惧する村民多くなり、文化的なものを渇望するようになったこうした折にふるさと創生事業日本国から1億円が交付されることになり、では「ふる里村塾」と称する文化事業開始した。ふる里村塾は、小椋佳らを招いてコンサート講演会開催するというもので、村民から好評得たが、会場小中学校の体育館福祉センター講堂だったため、音響照明空調が不十分であり、多目的ホール建設求める声が高まっていった。 時を同じくして、柏崎刈羽原子力発電所からの高圧電線村内横断することになり、その補償金として10数億円がもたらされた。ではこの補償金を、送電線による野菜への被害があった場合備えて基金化し残った分で総合文化施設建設するための教育施設整備基金積み立てることにした。1991年平成3年2月1日川上村総合文化施設基本構想策定委員会発足し、「理想的なものを造る」を第一に建設費二の次にという方針の下、1992年平成4年5月1日委員会総合文化施設基本構想答申したこの中で施設内に図書館を置くこと、その図書館24時間利用できるようにすることが盛り込まれた。川上村経済的に豊かなにした立役者である村長藤原忠彦は、レタス栽培による好景気がいつか終わるかもしれない考え、そうなったときに正しく導ける「賢い村人」を育てるためにも図書館が必要であるとした。 村役場企画課では基本構想具現化するために奔走することになった構想では1つ施設図書館歴史民俗資料美術品収蔵展示施設コンサートホール、ハイビジョンシアター、茶室談話室などを置くことが示されており、前代未聞複合施設建設のために3つの建設推進委員会による検討プロポーザル方式による基本設計実施したプロポーザル1993年平成5年1月から2月にかけて複数行われ最終的に山下設計の案が採用された。図書館部分については、24時間開館実現するための図書館資料管理方法無人時間帯入退館・貸し出し方法光熱費節約方法検討された。 1993年平成5年6月山下・団設計JV設計・監理委託契約締結し同年12月末に起工式挙行した。図書館管理システム工事富士通長野支社受注し1994年平成6年2月18日から1995年平成7年3月25日まで行われた当初建設費先述教育施設整備基金地方債充当する予定であったが、農林水産省から補助金得られることになり、最終的に25億3300万円補助得られた。

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開館の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/23 19:56 UTC 版)

プラナカン博物館」の記事における「開館の経緯」の解説

2006年1月1日当時ACM 1として知られていた博物館は、アルメニアン通りウィング大規模な改修のため閉鎖された。閉鎖の際に博物館の運営陣は、旧道南学校のスペース新しショーケースについて、子ども博物館中国陶器博物館よりもプラナカン文化テーマとすることを選択した。このことにより、プラナカン芸術作品陶器収集する特徴的包括的な年間11万2,000人の来場客集め博物館となった。またこの改修によって展示スペース25パーセント拡大しプラナカン家庭や生活の多様な側面異な文脈から展示することが可能となった。さらに、建物隣接する4軒のショップハウスを、プラナカンテーマとする食堂店舗とする計画含まれている。 プラナカンの生活をテーマとする10常設ギャラリーを持つ同博物館は、2008年4月25日正式に開館した。同博物館中心的な展示物プラナカンのウェディング・ベットで、これはかつてペナン島出身のクア・ホンチアム夫人 (Quah Hong Chiam) が所持していたものである.。

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開館の経緯

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静岡市歴史博物館」の記事における「開館の経緯」の解説

静岡市歴史博物館がある葵区は、北部南アルプス山々連なり谷間には温泉点在し南部の狭い平野部人口のほとんどが集中し駿河区静岡市中心市街地形成し静岡県政治経済中心地となっている。その南部は、今川時代から駿河地域中心であり、徳川時代には徳川家康大御所政治行った駿府城築かれ徳川政権事実上副都として機能した駿府城一丁四方区画され町割りは、現在においても当時のものとほとんど変わっていない。 静岡市歴史博物館には、公立静岡市立登呂博物館静岡市文化財資料館静岡浅間神社境内2021年令和3年12月26日閉館)、私立久能山東照宮博物館フェルケール博物館などはあるが、静岡市歴史文化整理し説明する施設がなかった。市民からも、静岡市歴史文化についての展示紹介する博物館希望する声が高まっていた。 1990年平成2年)代、静岡市は市の持つ豊かな歴史と文化十分に活かし、「歴史文化から静岡未来をつくる」という基本理念のもと、「世界に輝く静岡」の願いを叶えるため、歴史文化拠点となる歴史文化施設の建設構想手を付けたことに始まる。 歴史博物館構想は、その動機となったのがNHK大河ドラマ徳川慶喜』を契機とした徳川慶喜ブームであり、その背景には静岡市郷土歴史改め見直し、また文化をより振興させたいとの声が高まっていたからだった。静岡市文化財協会では、歴史ブームあやかりたい歴史博物館早期建設要望していた。 県内では大河ドラマからの慶喜ブーム継続し慶喜展が開催されるなど、これから企画展などのイベントの開催期待されていた。イベントの「徳川慶喜明治静岡推進協議会は、研究会などを開催するなど活発な活動行い歴史新たな掘り起こし力を入れていた。そして、大きな建設目的として「歴史探究」「地域学習」「観光交流」を施設役割として掲げた静岡市文化財協会は、「静岡市歴史発信することが大切」だとして、総合歴史博物館建設希望した会長は「静岡市埋蔵文化財展示し歴史研究する施設が必要」と表明した。また協会は、2000年平成12年)に日本放送協会徳川家康から将軍三代テーマにした大河ドラマ葵 徳川三代」を放映することから博物館が必要であるとした。 2021年令和3年1月19日NHK大河ドラマ62作『どうする家康』の制作発表が行われ、2023年令和5年)から放送予定であることが決まった室町時代後期から江戸時代舞台徳川家康描かれる今川人質として駿府過ごした幼年期戦国時代1585年天正13年駿府城築城1590年天正18年駿府から江戸移り江戸時代1607年慶長12年駿府城大改修などの壮年期晩年65歳から亡くなる75歳までの約10年間を駿府過ごした

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開館の経緯

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イーブルなごや」の記事における「開館の経緯」の解説

名古屋市地域婦人団体中心となり、1947年昭和22年)から婦人教育専門施設設置求め運動始まった婦人会建設のための募金活動結果1960年昭和35年)に寄付総額1300万円名古屋市納めることができ、名古屋市教育館の6階に「婦人教育センター」を開設することができた。 その後設備スペース充実訴え市民からの要求続き小規模婦人グループ学習する場の確保苦労する状況もあったことからも社会教育施設開館求める声は高まっていった。1973年昭和48年)には地域婦人団体クラブ婦人団体中心に婦人会設置求め署名運動始まり同年12月20日署名8筆を名古屋市提出した1974年昭和49年2月1日名古屋市会において請願採択された。 1975年昭和50年)に建設向けた調査委員会設置その中で名古屋市中区大井町にある名古屋市大井プール跡地婦人会館を建設し屋上プール開設する案が出された。設計プラン検討は、婦人団体にも開かれた形で議論され市民参加による施設づくりは、当時名古屋市では画期的なものであった婦人会設立進めた社会背景には、1975年昭和50年)の国際婦人年機に女性対す政策充実進んだことがある名古屋市でも、女性のための福祉上の目的で、1975年昭和50年)に名古屋市勤労婦人センター開館名古屋市婦人会館と続き女性学習交流機会公的に保障する取り組み進んだ

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開館の経緯

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呉市海事歴史科学館」の記事における「開館の経緯」の解説

呉市造船業不況による経済停滞からの脱却模索していた1980年代初頭広島県県立博物館建設検討していた。1980年度より呉市も県に対して市内での県立博物館設置要望を出すようになったこの頃は「海に関する県立博物館」という構想であった1990年度 - 1991年度にかけて呉市から業務委託受けた財団法人日本博物館協会博物館基本構想策定し、「近代造船技術進展」を展示する博物館提唱された。こうして1991年度より資料収集調査研究開始された。 1993年11月呉市長に前広県副知事小笠原臣也就任する小笠原松山市助役務めていたころ、同市の子記念博物館設立かかわった経験があり、文化行政ノウハウ理解していた。また、博物館の資料調べる際、司馬遼太郎坂の上の雲』などで自らの出身地・呉の「軍都としての歴史再確認していた。そのため、小笠原積極的に博物館建設推進していく。 1994年 - 1995年にかけて、戦艦大和博物館としていくことに構想固まっていった。しかし、県側は(海)軍事色が強い博物館県立として開館することは難しいことを呉市伝えた。そこで小笠原1996年12月市議会で、博物館建設に市主体取り組むことを正式に表明した1997年呉市は主要プロジェクト1つとして海事博物館建設明記し同年9月市議会呉駅南側宝町地区博物館建設場所とすることが表明された。財源は国(防衛施設庁科学技術庁)・県への働きかけ加え呉市博物館推進基金呉商工会議所募金委員会などを設立し民間資金活用行われた最終的に事業費総額65億円のうち、国・県・地方交付税募金等が約36億円、市負担が約29億円となった1999年10月 - 12月呉市博物館設立準備として設置していた収蔵展示施設で「戦艦大和展」が行われた。これには3カ月累計1万人を超える来館者が訪れた2000年大阪開催され関西ミュージアムメッセで呉市参加した戦艦大和関連展示には、4日間で1万2000人以上が訪れ、そのアンケート結果1300件分)では「印象残った出展ブース」の第1位となった2003年初頭広報活動一環として名称募集行い同年8月正式名称を「呉市海事歴史科学館」、愛称を「大和ミュージアム」とすることが公表された。 2005年1月、ガイドボランティアが組織された。マスコミ関心高まっており、2005年3月定例市議会では、入館者数予想当初20万人から40万人引き上げられた。ただしこれらは、反対意見抑えるための多め見積もりであったと、小笠原らが後に明かしている。2005年4月23日開館迎えた

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開館の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 05:42 UTC 版)

新潟市新津鉄道資料館」の記事における「開館の経緯」の解説

新津市(現:新潟市秋葉区)の新津車両所新津車両製作所→現:総合車両製作所新津事業所)の敷地脇に所在した、新潟鉄道病院新津分室1982年昭和57年3月以って廃止されたのに際して、「鉄道の町新津市鉄道文化後世伝承したい」として日本国有鉄道職員OB鉄道ファンなどが中心となって鉄道題材とした資料館設置求め動き起こり当時新津市が旧分室施設活用して1983年昭和58年10月14日鉄道記念日)、「新津市鉄道資料館」として開館した開館際し国鉄OB中心とした市民から数多く資料提供を受け、当時資料数静態保存車両含め約2,000点を有したその後国鉄1966年昭和41年7月新潟市下所島(現:中央区幸西)から新津市 西金沢新津市 東町経て、現:新潟市秋葉区新津東町)へ移転した国鉄職員訓練施設新潟鉄道学園」が、1987年昭和62年)の国鉄分割民営化に際して廃止閉鎖された後、1997年平成9年4月新津市施設買収し公民館施設転用されることになり、施設名称を「新津地域学園」とした。加えて鉄道資料館旧施設老朽化などから地域学園の別棟移転する至り1998年平成10年4月1日開館したこの際静態保存車両東日本旅客鉄道JR東日本)へ返却されたが、この移転時に市民から数多く資料提供を受けたまた、2005年平成17年3月21日新津市新潟市編入合併されたことに伴い地域学園は「新潟市新津地域学園」に改称し鉄道資料館も現名称に改称した後述するリニューアル事業着手前の2012年平成24年時点において約8,600点の資料所蔵していた。

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開館の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 03:23 UTC 版)

MOA美術館」の記事における「開館の経緯」の解説

創立者岡田茂吉は、「優れた美術品には、人々の魂を浄化し、心に安らぎ与え幸福に誘(いざな)う力がある」と考えていた。「美術品決し独占すべきものではなく一人でも多くの人に見せ、娯しませ、人間品性向上させる事こそ、文化の発展大い寄与する」との信念のもと、戦後東洋美術の優品の蒐集につとめ、海外へ流出防ぎ1952年昭和27年6月15日神奈川県箱根町強羅箱根美術館開館9月15日財団法人東明美術保存会(現在は公益財団法人岡田茂吉美術文化財団)を設立したその後岡田の「熱海にも世界的な美術館建設し日本優れた伝統文化世界人々紹介したい」との願い継承して1957年昭和32年1月1日熱海市熱海美術館開き岡田生誕100周年にあたる1982年昭和57年)を機に現在のMOA美術館開館した現代美術作家杉本博司建築家田倫之が主宰する新素材研究所」の監修特殊なガラスケース使って作品との仕切り意識させないように改修し2017年平成29年2月5日新装開館した

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開館の経緯(-1986)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 18:24 UTC 版)

筑西市立図書館」の記事における「開館の経緯(-1986)」の解説

明野町立図書館開館前には公民館図書室図書館機能代行していたが、年間貸出冊数は1,000程度であった図書館設置契機となったのは、1980年昭和55年)に当時明野町総合振興計画策定のために行った住民アンケート中に図書館がほしい」という意見が1件あったことである。当時県西地区には下館市立図書館があるのみでその存在すら知らぬ明野町民もいる状況で、行政当局はこの意見汲み1981年昭和56年9月明野町議会図書館建設含んだ総合計画議決された。 実際に図書館建設向けて動き出したのは1985年昭和60年4月1日のことで、同日付で「図書館準備室」が役場置かれ三輪巴が室長任命された。三輪館長候補として司書資格取得するために図書館情報大学(現・筑波大学)に通う傍ら図書館設計にも参与した設計においては延床面積700m2の2階建ての素案をワンフロアの1,200m2に改め、130m2の児童室を確保した。ワンフロア化したのは障害者健常者利用しやすいこと、2階建てよりも建築費を抑制できること、2階建てにした場合発生する階段通路部分面積を「無駄」と判断したことにある。計画進行する中で、「税金無駄遣い」や「図書館造って誰が本を読むのか」と公言する町民存在したが、こうした意見述べていた町民開館後には翻意し、過去笑い話として語るようになった

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開館の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:22 UTC 版)

刈谷市郷土資料館」の記事における「開館の経緯」の解説

建物1928年昭和3年10月亀城尋常高等小学校現在の刈谷市立亀城小学校)の本館として建設されたものである校舎としては老朽化進行したことから、1974年昭和49年)には新校舎建設され1977年昭和52年)には特別教室棟完成しその後は全く使用されていなかった。刈谷市はこの建物取り壊し計画したが、卒業生文化人などが保存運動展開し資料館としての保存決定した保存決定した際には具体的な展示物決まっていなかったが、市民からは相次いで農具柱時計ランプなど民具寄贈された。1979年昭和54年1月には改装工事着工し1979年度いっぱい展示品整理などを行った資料館開館には事業費7500万円投じられている。

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開館の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 14:45 UTC 版)

三重県立熊野古道センター」の記事における「開館の経緯」の解説

熊野古道伊勢路伊勢神宮熊野三山を結ぶ道として庶民利用されてきたが、鉄道自動車通行可能な道路整備伴って忘れ去られた道となったこうした情勢で、1970年代頃より一部地域住民山中埋もれた古道掘り起こし古道ウォーキングなどの活動開始したその活動者の中に、後にNPO理事長として熊野古道センター長を務めることになる花尻薫がいた。一方尾鷲市のある東紀州典型的な過疎地域であり、三重県北部比較する経済格差大きく生活基盤施設整備が遅れ、「南北問題」と称されている。三重県1997年平成9年)に東紀州活性化向けた構想発表し紀北PFI利用した海洋深層水利用施設を、紀南ゴルフ場建設する計画立案された。紀南構想進んだものの、紀北海洋深層水事業需要見込み不透明採算性に難があったために頓挫し、それに代わるものとして提案されたのが「熊野古道センターであったこの頃より住民活動であった熊野古道保存行政関与するようになり、1999年平成11年)に開催され東紀州体験フェスタ契機として熊野古道への一般市民関心高まっていった。東紀州体験フェスタは約6万人熊野古道集客しただけでなく、後に世界遺産となる部分古道修復が進むこととなった2001年平成13年3月14日三重県議会生活振興常任委員会の場で、初め熊野古道センター構想発表され当初博物館機能持った熊野古道訪れる人のための休息宿泊施設とする計画であった建設にはPFI導入視野入れていることやレストラン温浴施設併設することも合わせて公表された。 熊野古道センター開館前にして、2004年平成16年7月7日熊野古道伊勢路紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産登録された。その少し前の2004年平成16年2月熊野古道センター設計始まり2005年平成17年3月完了続いて2005年平成17年8月着工した2006年平成18年10月4団体の中から指定管理者として特定非営利活動法人熊野古道自然・歴史・文化ネットワーク選定された。2007年平成19年2月10日三重県立熊野古道センター開館した開館イベントでは200人でテープカットが行われた。開館から1か月弱で入館者数1万人を突破した。また同年4月28日には夢古道おわせ開業した

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開館の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 17:01 UTC 版)

熱海山口美術館」の記事における「開館の経緯」の解説

創設者山口伸廣は、貧し家庭環境育ったが、小学校美術先生ある日作品を「上手いな。」でなく「面白いな。」と評価されたことを機に美術への興味を持つようになったその後自身でも芸術創作活動をするも、本業としての芸術家断念実業家として才能開花させ、経営者としての道を歩むその後、「自分芸術家才能は無いが、芸術家応援することはできる。」と、経営者務めながら、国内外アーティスト支援することを志す2007年1月湯河原人間国宝美術館創設陶芸人形漆芸金工染織作品など中心とした美術館で、特に人間国宝茶器抹茶を飲むことができるという、他に類を見ないサービス話題となった2015年国内外アート作品募集したアート祭典、「アートオリンピア」を主催応募国は1回開催対し、約100カ国にのぼる世界最大級の参加国規模を誇る。以降隔年ごとに開催されている。「世界アーティスト発掘しその活動支援すること」をコンセプトとし、審査員国際的な美術関係者構成過去審査員には、第22文化庁長官宮田亮平画家千住博海外からはガゴシアンギャラリーディレクターのキャラ・ヴァンダー・ウェグ、イサム・ノグチ庭園美術館館長のブレット・リットマン、三菱一号館美術館初代館長務めた高橋明也などらが務めた。この時から本格的にアーティスト支援することへの体制構想整い始める。 2017年6月岡山県備前市穂浪にてFAN美術館設立藤原啓記念館の同敷地内併設する形で開館した2020年12月18日地元タクシー会社事務所などが入っていたビル一、二階を改修し熱海山口美術館設立今まで美術館設立経験と、アート祭典主催経験活かし、「学べ美術館」をコンセプト掲げている。

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