大御所政治とは? わかりやすく解説

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大御所政治

読み方:オオゴショセイジ(oogoshoseiji)

前将軍隠退後も在職中同様の実権持ち政治とりつづけること。


大御所 (江戸時代)

(大御所政治 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 15:34 UTC 版)

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江戸幕府において大御所(おおごしょ)は、征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍を指す尊称

大御所の由来

江戸幕府において大御所の名が正式に用いられるようになったのは、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた徳川家康が、1605年に将軍職を子の徳川秀忠に譲って隠居したときに「大御所」という敬称が用いられるようになったときである。前将軍に対して大御所の尊称を用いることは、鎌倉時代室町時代からすでに行われていた。

大御所政治

駿府を中心に徳川家康(大御所)が行った、徳川秀忠征夷大将軍)との二元政治は「江戸幕府」を参照。

2代将軍・秀忠は1623年に将軍職を息子徳川家光に譲って隠居している。そして1632年に病死するまで、政治の実権を握り続けた。西丸派(大御所)は秀忠側近を中心としているのに対し、本丸派(将軍)は新旧の譜代層から構成されていた。

秀忠・家光 二元政治の幕閣[1]

8代将軍・徳川吉宗1745年に将軍職を息子徳川家重に譲って隠居しているが、家重は言語障害があったため、1751年に死去するまで、吉宗は実権を握り続けた。

9代将軍・徳川家重は、1760年に将軍職を息子徳川家治に譲って隠居しているが、言語を唯一理解できた御側御用人大岡忠光の逝去を受けての将軍職引退であり、また、翌年に病死したため、大御所として政治的実権を握ってはいない。

11代将軍・徳川家斉は将軍就任直後、将軍でなかった実父の徳川治済に大御所号を贈ろうとして、老中松平定信に先例が無いとして反対され、断念した(大御所事件)。

また自らも1837年に将軍職を息子徳川家慶に譲った後も、1841年に死去するまで大御所として政治の実権を握り続けていた。なお、家斉の治世は50年以上にも及んだため、将軍在任中も含めて「大御所時代」と呼ばれることが多い。

この他、15代将軍・徳川慶喜も生存中に将軍職を辞して、宗家の家督も徳川家達に譲り、過去の大御所と似た存在となった。しかし徳川幕府が政権を返上した後のことであり、徳川家の家政も執らず別家を立てて当主となっているので、同列にはできない。

関連項目

脚注

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  1. ^ 藤野保『徳川幕閣』1990年、中央公論社

大御所政治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「大御所政治」の解説

慶長10年1605年4月16日将軍職辞するとともに朝廷嫡男秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職以後徳川氏世襲していく」ことを天下示した同時に豊臣秀頼に新将軍秀忠対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶結局、六男・松平忠輝を大坂城派遣したことで事は収まった。なお、このとき次世代家臣である井伊直孝板倉重昌叙任された。 慶長12年1607年)には駿府城移って東国大名や幕府制度整備進める「江戸将軍秀忠に対して、「駿府大御所」として主に朝廷寺社西国大名外交担当した(大御所政治)。 同年朝鮮通信使謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交回復した[要出典]。 慶長13年1608年)、大坂方が朝廷働きかけ秀頼を左大臣にする兆候事前に捉え、これを阻止する(しばらく左大臣空位)。同年右大臣九条忠栄関白推挙する慶長14年1609年)、オランダ使節会見オランダ総督使節国王自称マウリッツからの親書受け取り朱印状による交易平戸オランダ東インド会社商館開設許可した慶長16年1611年3月20日に九男・徳川義利義直)、十男・頼将(頼宣)、十一男・鶴松(頼房)を叙任させた。「御三家体制への布石いえよう[要文特定詳細情報]。3月22日には、自らの祖先称する新田義重鎮守府将軍を、実父松平広忠には権大納言贈官した。 同年3月28日二条城にて秀頼と会見した当初、秀頼はこれを秀忠征夷大将軍任官の際の要請同じく拒絶する方向でいたが、家康織田有楽仲介として上洛要請し淀殿説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下衆目に、徳川公儀豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり、4月12日西国大名らに対し三カ条の法令示し誓紙取ったことで、徳川公儀による天下支配概ね成ったともいわれる同年ヌエバ・エスパーニャ現在のメキシコ副王ルイス・デ・ベラスコ使者セバスティアン・ビスカイノ会見しスペイン国王フェリペ3世親書受け取る。両国友好については合意したものの、通商望んでいた日本側に対しエスパーニャ側の前提条件キリスト教布教で、家康経教分離外交無視したことが、家康をして禁教踏み切らせた真因である。この後家康対外政策貿易制限意図全くないことから、この禁教令鎖国直結するものではない。 慶長18年1613年)、イギリス東インド会社ジョン・セーリス会見イングランド国王ジェームズ1世からの親書献上品受け取り朱印状による交易平戸イギリス商館開設許可した

※この「大御所政治」の解説は、「徳川家康」の解説の一部です。
「大御所政治」を含む「徳川家康」の記事については、「徳川家康」の概要を参照ください。

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