大御所 (江戸時代)
大御所政治
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慶長10年(1605年)4月16日、将軍職を辞するとともに朝廷に嫡男・秀忠への将軍宣下を行わせ、将軍職は以後「徳川氏が世襲していく」ことを天下に示した。同時に豊臣秀頼に新将軍・秀忠と対面するよう要請したが、秀頼はこれを拒絶。結局、六男・松平忠輝を大坂城に派遣したことで事は収まった。なお、このとき次世代の家臣である井伊直孝と板倉重昌も叙任された。 慶長12年(1607年)には駿府城に移って、東国大名や幕府の制度整備を進める「江戸の将軍」秀忠に対して、「駿府の大御所」として主に朝廷・寺社・西国大名・外交を担当した(大御所政治)。 同年、朝鮮通信使と謁見し、文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復した[要出典]。 慶長13年(1608年)、大坂方が朝廷に働きかけ秀頼を左大臣にする兆候を事前に捉え、これを阻止する(しばらく左大臣は空位)。同年、右大臣九条忠栄を関白に推挙する。 慶長14年(1609年)、オランダ使節と会見。オランダ総督(使節は国王を自称)マウリッツからの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可した。 慶長16年(1611年)3月20日に九男・徳川義利(義直)、十男・頼将(頼宣)、十一男・鶴松(頼房)を叙任させた。「御三家」体制への布石といえよう[要文献特定詳細情報]。3月22日には、自らの祖先と称する新田義重に鎮守府将軍を、実父・松平広忠には権大納言を贈官した。 同年3月28日、二条城にて秀頼と会見した。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいたが、家康は織田有楽を仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼を上洛させることに成功した。この会見により、天下の衆目に、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを明示したとする見解があり、4月12日に西国大名らに対し三カ条の法令を示し、誓紙を取ったことで、徳川公儀による天下支配が概ね成ったともいわれる。 同年、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)副王ルイス・デ・ベラスコの使者セバスティアン・ビスカイノと会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない。 慶長18年(1613年)、イギリス東インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可した。
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大御所政治
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駿府を中心に徳川家康(大御所)が行った、徳川秀忠(征夷大将軍)との二元政治は「江戸幕府」を参照。 2代将軍・秀忠は1623年に将軍職を息子徳川家光に譲って隠居している。そして1632年に病死するまで、政治の実権を握り続けた。西丸派(大御所)は秀忠側近を中心としているのに対し、本丸派(将軍)は新旧の譜代層から構成されていた。 秀忠・家光 二元政治の幕閣 江戸城西丸(大御所) 徳川秀忠土井利勝、井上正就、永井尚政、青山幸成、森川重俊(西丸老職、秀忠側近) 江戸城本丸(将軍) 徳川家光酒井忠世、酒井忠利、稲葉正勝、阿部正次、酒井忠勝、内藤忠重(本丸老職) 松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、三浦正次(小姓組番頭、家光側近) 米津田政、島田利正(江戸町奉行) 8代将軍・徳川吉宗は1745年に将軍職を息子徳川家重に譲って隠居しているが、家重は言語障害があったため、1751年に死去するまで、吉宗は実権を握り続けた。 9代将軍・徳川家重は、1760年に将軍職を息子徳川家治に譲って隠居しているが、言語を唯一理解できた御側御用人大岡忠光の逝去を受けての将軍職引退であり、また、翌年に病死したため、大御所として政治的実権を握ってはいない。 11代将軍・徳川家斉は将軍就任直後、将軍でなかった実父の徳川治済に大御所号を贈ろうとして、老中松平定信に先例が無いとして反対され、断念した(大御所事件)。 また自らも1837年に将軍職を息子徳川家慶に譲った後も、1841年に死去するまで大御所として政治の実権を握り続けていた。なお、家斉の治世は50年以上にも及んだため、将軍在任中も含めて「大御所時代」と呼ばれることが多い。 この他、15代将軍・徳川慶喜も生存中に将軍職を辞して、宗家の家督も徳川家達に譲り、過去の大御所と似た存在となった。しかし徳川幕府が政権を返上した後のことであり、徳川家の家政も執らず別家を立てて当主となっているので、同列にはできない。
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