家康の天下普請
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:36 UTC 版)
家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)に藤堂高虎の協力で築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城・二条城・彦根城・篠山城・亀山城・北ノ庄城・名古屋城の再建・造営や江戸城・駿府城・姫路城・上野城などの大改修など、諸大名を動員した建築事業として御手伝普請を課し、いわゆる天下普請を行った。この中で駿府城の普請は、普請に対する主従関係の希薄な五百石夫(知行高五百石につき人夫一人)という形で行われ、これは秀頼の所領に対しても賦課された。駿府城の改修により、家康は大御所政治を始動する。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、淀殿がこれに拒否反応を示し、沙汰止みになっている。
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