家康の徳川改姓と家臣化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 11:17 UTC 版)
広忠の嫡子竹千代(9代。元服して元康)は今川氏の人質として駿府に送られ、松平氏の三河支配は実質的に中断を余儀なくされた。一方、清康にも広忠にも公式には嫡子以外の男子がいないため(落胤がいたとの説はある)、広忠の死去当時8歳であった竹千代を後見する親族がおらず、また、竹千代の身に万が一があった場合にはそのまま松平氏の滅亡につながる状況にあった。従って、今川氏が竹千代を保護して松平氏を従属した国衆にすることで存続が図られた側面もあった。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、元康は大樹寺住職の説諭を得て生誕地の岡崎城に戻る。やがて今川氏から独立し、名を松平家康と改める。家康は三河を統一すると永禄9年(1566年)に勅許を得て、先祖義季以来の得川の名字を復活させると、さらに嘉字である徳川氏に改めた。ただし、徳川の名乗りは家康一家のみが名乗り、松平諸家の姓は松平に留めた。家康はこれにより自身の家系を松平一族中で別格の存在として内外に認知させることに成功し、「十八松平」諸家は徳川氏の親族ではなく家臣の格である「譜代」に位置付けられた(実際、十八松平諸家は重臣である酒井氏や石川氏の与力・組下とされていた)。
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