家康の家臣になるまでとは? わかりやすく解説

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家康の家臣になるまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 01:56 UTC 版)

井伊直政」の記事における「家康の家臣になるまで」の解説

永禄4年1561年2月19日今川氏家臣である井伊直親嫡男として、遠江国井伊谷現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷近く祝田(ほうだ・現在の浜松市北区細江町中川)で生まれる。母は奥山朝利の娘・ひよ。幼名は虎井伊氏先祖代々井伊谷国人領主であり、当時井伊家当主である井伊直盛(虎の父・直親従兄養父)は今川義元仕えて桶狭間の戦い戦死した。父・直親は、虎生まれた翌年永禄5年1562年)、謀反嫌疑受けて今川氏真誅殺された。当時、虎はわずか2歳であったため、直盛の娘に当たる次郎法師井伊直虎名乗り井伊氏当主となった。 虎今川氏に命を狙われたが、新野親矩助命嘆願して、親矩のもとで生母・ひよと共に暮らす。しかし永禄7年1564年)に親矩が討死し、そのまま親矩の妻のもとで育てられたとも、親矩の妹で直盛の未亡人祐椿尼とひよが養育したともいうが、永禄11年1568年)、甲斐国武田氏今川氏攻めようとした際、井伊家家老小野道好今川氏からの命令として、虎亡き者にして小野井伊谷軍勢率いて出兵ようとしたため、虎出家させることにして浄土寺、さらに三河国鳳来寺入れた天正2年1574年)、虎が父・直親13回忌のために龍潭寺に来た時、祐椿尼直虎、ひよ、龍潭寺住職南渓瑞聞相談し徳川家康仕えさせようとする。まずは虎鳳来寺帰さないために、ひよが徳川氏家臣松下清景再嫁し、虎松下氏養子にしたという(『井伊家伝記』)。天正3年1575年)、家康見出され井伊氏復することを許された虎は、名を井伊万千代改めた。さらに旧領である井伊谷領有認められ家康小姓として取り立てられた。

※この「家康の家臣になるまで」の解説は、「井伊直政」の解説の一部です。
「家康の家臣になるまで」を含む「井伊直政」の記事については、「井伊直政」の概要を参照ください。

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