家康の懐刀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 04:41 UTC 版)
徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えた。 永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻した。永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍した。 永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行ない、清洲同盟成立に大きく貢献した。永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったとみられるが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。石川宗家の家督は叔父の石川家成が家康の命で継いだが、これは家成が家康の従兄妹にあたるためでもある。しかし、家康に近習していたこともあり、戦後に家康から家老に任じられ、酒井忠次、石川家成らに次いで重用されるようになった。信康が元服するとその後見人となった。永禄12年(1569年)には、西三河の旗頭であった叔父の家成が遠州東部の要である掛川に転出すると、代わって西三河の旗頭となった。 また、軍事面においても元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げた。天正7年(1579年)に信康が切腹すると、岡崎城代となる。 天正10年(1582年)に織田信長が死去し、その後に信長の重臣であった羽柴秀吉が台頭すると、数正は家康の命令で秀吉との交渉を担当した。このため天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加。この戦いにおいて家康に秀吉との和睦を提言したともされる。 天正13年(1585年)3月までに数正は康輝(やすてる)と改名しており、以降短期間であるが「康輝」名義の文書を発給している。
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