家康の調停と三成の失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 15:39 UTC 版)
翌日、伏見城も武断派に取り囲まれることとなるが、伏見城下で政務を執っていた徳川家康より仲介を受ける。七将が家康に三成を引き渡すように要求したが、家康は拒否した。家康はその代わり三成を隠居させる事、及び蔚山城の戦いの査定を見直しする事を約束し、次男・結城秀康に三成を三成の居城・佐和山城に送り届けさせた。三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られることになり、家康の評価も相対的に高まることになったと評価されている。これに対して、家康と三成の関係は常に対立一辺倒ではなく両者が協調を模索している時期もあり、家康は双方に対して中立的に事態を解決しようとしたが、結果的にその振舞いが却って双方の対立を悪化させたとする見方もある。 慶長4年閏3月9日付大谷吉継書状黒印状が2018年に史料紹介された。七将による襲撃事件について、その主導権を握った徳川家康の裁定を支持し、最大級の賛辞を贈っているとし、大谷吉継と家康は関係が良好であったことが分かると指摘されている。なお、この古文書は宛所が欠損している。 上記の解釈に対して、この大谷吉継書状は石田三成に出したものであり、この問題を仲裁した人物に対しての礼状ではないことは明白であるとする反論がある。 佐和山での別れ際に、三成は豊臣秀吉からの拝領品である、当時、武将の間で羨望の的だった名刀・正宗を秀康に譲った。江戸時代、武士の間で「石田三成」の名を口にすることは憚られたが、秀康はこの刀を「石田正宗」と名付けて終生愛用したという。
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