家康・秀忠時代
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慶長9年(1604年)、李氏朝鮮より正使・呂祐吉(英語版、朝鮮語版、中国語版)以下の使節が来日するとその事務を総括した。慶長10年(1605年)4月、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も4月29日に従五位下・大炊頭に叙位・任官し、以後は秀忠の側近としての地位を固めていった。 慶長13年(1608年)には浄土宗と日蓮宗の論争(慶長宗論)に裁断を下して政治的手腕を見せ、慶長15年(1610年)1月、下総国佐倉3万2,000石に加増移封となった。10月に本多忠勝が死去すると、家康の命令により12月1日に秀忠付の老中に任じられた。慶長17年(1612年)に4万5,000石に加増される。 慶長20年(1615年)、大坂の陣が起こると利勝は秀忠付として従軍し、豊臣氏滅亡後、秀忠より猿毛柄の槍を贈られ、さらに6万2,500石に所領を加増された。夏には青山忠俊(忠成の次男)、酒井忠世と共に徳川家光の傅役を命じられた。元和2年(1616年)、秀忠の命で一国一城令と武家諸法度(13条)を制定した。これにより戦国時代は完全に終わりを告げ、諸大名は幕藩体制に組み込まれることとなった。4月に家康が死去すると、久能山に葬られる際には利勝がその一切の事務を総括した。 元和4年(1618年)、黒坂藩主の関一政が改易されたため、一政の弟・関盛吉を食客とした。 元和8年(1622年)、家康の側近として辣腕を振るった本多正純が失脚した。背景に利勝の策動を指摘する声もある。正純の失脚によって、利勝は「名実ともに幕府の最高権力者」となった。
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