家康・秀忠時代とは? わかりやすく解説

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家康・秀忠時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 21:30 UTC 版)

土井利勝」の記事における「家康・秀忠時代」の解説

慶長9年1604年)、李氏朝鮮より正使呂祐吉英語版朝鮮語版中国語版)以下の使節来日するその事務を総括した慶長10年1605年4月秀忠上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も4月29日従五位下大炊頭叙位任官し以後秀忠側近としての地位固めていった。 慶長13年1608年)には浄土宗日蓮宗論争慶長宗論)に裁断下して政治的手腕見せ慶長15年1610年1月下総国佐倉3万2,000石に加増移封となった10月本多忠勝死去すると、家康命令により12月1日秀忠付の老中任じられた。慶長17年1612年)に45,000石に加増される。 慶長20年1615年)、大坂の陣が起こると利勝は秀忠付として従軍し豊臣氏滅亡後秀忠より猿毛柄の贈られ、さらに6万2,500石に所領加増された。夏には青山忠俊(忠成の次男)、酒井忠世と共に徳川家光傅役命じられた。元和2年1616年)、秀忠の命で一国一城令武家諸法度13条)を制定した。これにより戦国時代は完全に終わりを告げ諸大名幕藩体制組み込まれることとなった4月家康死去すると、久能山葬られる際には利勝がその一切事務総括した元和4年1618年)、黒坂藩主の関一政改易されたため、一政の弟・関盛吉食客とした。 元和8年1622年)、家康側近として辣腕振るった本多正純失脚した背景に利勝の策動指摘する声もある。正純の失脚によって、利勝は「名実ともに幕府最高権力者となった

※この「家康・秀忠時代」の解説は、「土井利勝」の解説の一部です。
「家康・秀忠時代」を含む「土井利勝」の記事については、「土井利勝」の概要を参照ください。

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