家康の養女であったか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 02:55 UTC 版)
一般的に小松姫は家康の養女として真田氏に嫁いだものとされており、本多氏の系図『参考御系伝』にも同様の内容が記されている。『本多家武功聞書』などによれば、家康が真田昌幸を従わせるため、嫡男の信之に家康の重臣・本多忠勝の娘を嫁がせようとしたが、昌幸は承諾しなかったため、家康は忠勝の娘を自分の養女とした上で嫁がせるのではどうかと提案したところ、昌幸はようやく承諾した。その後、小松姫は高力摂津守を従えて江戸城西の丸から沼田へと向かったと記されている。この逸話について平山は天正11年(1583年)から天正16年(1588年)のものなら明らかにおかしいが、家康が関東に移封された天正18年(1590年)以後であれば問題ないと指摘している。 家康の養女であったかについては、信之の孫にあたる松代藩3代藩主・真田幸道が幕府に提出した書状や小松姫の菩提寺である大英寺の書上には「台徳院(秀忠)」の養女と通説と異なる記載がされているなど、実際に小松姫が家康の養女となったのか否かは確定されていない。ただし、家康の養女とする複数の所伝が残されていることや、信濃国の国衆の中では小笠原貞慶の長男・秀政も、松平信康の娘(登久姫)を家康の養女として正室に迎えていることから、養女の体裁が採られた可能性はある。
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