家康への忠義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:54 UTC 版)
家康の次男・結城秀康の母・於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重次の許に預け、秀康は重次に匿われている中村家住宅で誕生した。 天正13年(1585年)3月に家康が腫物をこじらせて重態に陥った時、治療を勧める医師の話に耳をかさない家康に業を煮やした重次は、「殿にはさてもさても分別のないにわか療治をなされたあげく犬死されることよ。ご自身で望まれたこととは申しながら、なんと惜しい命であることか……」「この作左お先にお供をつかまつる……。されば今生のお暇ごいをただ今申しあげる」と切腹の準備にとりかかったため、家康が折れて腫物の治療を受け、事なきをえた。
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