家康への忠勤、大坂の陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:24 UTC 版)
飯山藩4万石を領してからは、駿府にいて家康に仕えた。慶長16年(1611年)、駿府城火災の際にいち早く駆けつけ、宝物金銀を運び出し消火にあたった。その際に消火の器物に自分の名前を書いておき、後からきた人々はみな直寄の名の入った器を使ったので、この時の手柄は直寄のものとなり、美濃多芸郡に1万石加増された。 大坂夏の陣に弟・直之と共に参陣。大和口の軍将・水野勝成の手に属し、1番に直寄、2番に松倉重政とした。5月5日、水野・松倉らは田尻、直寄は亀瀬それぞれの経由で河内へ到着した。その際に、直寄は里人に近道を尋ね「亀瀬からは近道だが、その昔ここを通った物部守屋が戦いに敗れている。以降、聖徳太子の時代より不吉な道として石に亀の印を刻んで戒めとしたため、誰も軍勢を率いてこの道を通らなくなった」と聞かされた。これを聞いた直寄は「私がこの道を進み敵に勝てば、千年続いた愚かな迷信が解けよう。守屋は敗死したかもしれないが、私は勝って生きてみせる。もし私が戦死したのなら後世の戒めとせよ」と言い亀瀬を越え、水野・松倉らに先んじて河内へ到着したという。 夜も更けて水野勝成から「敵が寄せて来たらしく松明が多く見えてきた、侮らず警戒せよ」と諸将へ伝言があった。これを聞いた直寄は「勝成は物事に馴れていると聞いていたが、どうやら巧者ではなかったらしい。寄せ来たる敵がどうして松明を照らすだろうか。あれは敵ではない」と言った。しばらくして再び伝令が来て「松明が全て消えたので敵にあらず」告げると、直寄は「いやこれは敵である、何事もなく松明をつけていたが、巧者あって消させたのだろう」と言い、これが敵将・後藤基次の部隊であったという。6日未明、片山・道明寺の戦いで松倉重政の崩れるのを助け、横から討って出て、基次の兵が崩れた所を一気に押し切った。この激戦で後藤基次、薄田兼相らの名将は戦死した。7日の天王寺の戦いを経て、8日に大坂城は陥落、大坂夏の陣は終結した。 元和2年(1616年)4月1日、直寄は重病の家康から寝殿に召し出され、大坂の陣での軍功や平時の武備を称美したうえで「わしの死後、もし戦乱が起きたのなら、藤堂高虎を将軍の一陣、井伊直孝を二陣とし、お前は両陣の間に備えて横から打って敵を撃破すべし、必ず忠義に懈るべからず」と遺言した。
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