家康の関東入部以後
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深溝松平家の松平家忠は、天正18年(1590年)の家康の関東入部とともに武蔵国忍城に入ったが(忍藩)、文禄元年(1592年)2月19日に下総国香取郡上代(かじろ。桜井城とも。現在の旭市櫻井)に移った。『家忠日記』には上代での動向が詳しく記されているが、居城の普請については言及がないため、仮の配置という見方がある。家忠は文禄3年(1594年)に小見川城に移った。 家忠は鳥居元忠と共に慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死した。家督は子の松平忠利が継ぎ、翌慶長6年(1601年)2月に三河国深溝藩に移封された。 慶長7年(1602年)12月28日、土井利勝が1万石で入ったが、慶長15年(1610年)2月に下総国佐倉藩3万2400石に加増移封された。慶長17年(1612年)、安藤重信が1万6000石で入部した。重信は元和元年(1615年)に2万石の加増を受け、元和5年(1619年)10月にもさらに2万石加増の上で上野国高崎藩に加増移封となった。
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