家康の敗走と犀ヶ崖の戦いとは? わかりやすく解説

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家康の敗走と犀ヶ崖の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:29 UTC 版)

三方ヶ原の戦い」の記事における「家康の敗走と犀ヶ崖の戦い」の解説

武田軍によって徳川軍各隊次々壊滅していく中、家康自身追い詰められ夏目吉信鈴木久三郎身代わりにして、成瀬右衛門日下部右衛門小栗忠蔵島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越え並んで人生最大危機とも言われる浜松城到着した家康は、全ての城門開いて篝火焚きいわゆる空城計を行う。そして湯漬け食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心煽られ城内突入することを躊躇しそのまま引き上げる。 同夜、一矢報いよう考えた家康大久保忠世天野康景らに命令し浜松城北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍夜襲させる(犀ヶ崖の戦い)。この時、混乱した武田軍一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って見せかけ、これを誤認した武田勢殺到して崖下転落したなどの策を講じその結果多数死傷者出したという。 ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料初出である。「幅100mの崖に短時間で布を渡した」、「十数丁の鉄砲100人の兵で歴戦武田勢3狼狽させた」、「武田勢谷風になびく布を誤認した」という、荒唐無稽な逸話である。また、戦死者数書籍がどちらの側に立っているかによって差があり、『織田軍記』では徳川勢535人、甲州409人と互角に近い数字になっている

※この「家康の敗走と犀ヶ崖の戦い」の解説は、「三方ヶ原の戦い」の解説の一部です。
「家康の敗走と犀ヶ崖の戦い」を含む「三方ヶ原の戦い」の記事については、「三方ヶ原の戦い」の概要を参照ください。

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