家康の忠臣
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その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封で今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、津藩主となる。今治城は高虎の養子であった藤堂高吉を城代として治めさせた。この伊賀国における筒井氏から藤堂氏への交代は、家康の対豊臣策の一環として理解するのが妥当で、豊臣恩顧大名でありながら、家康の側近ともいえる高虎に伊賀を与えたことは、大坂方を刺激することなく、しかも確実に徳川方勢力を上方方面に食い込ませる家康の戦略によるものであった。 慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石になり、同年閏6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行を行った家臣の渡辺了と衝突、決別している。 高虎はこの戦いの戦没者供養のため、南禅寺三門を再建(創建当時の三門は文安4年(1295年)に焼失していた)釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営・安置している。梅原猛によれば、この釈迦如来像は岩座に坐し、宝冠をかぶった異形の像であり、高虎若しくは主君である徳川家康の威厳を象徴しているのではないかという(釈迦如来像は蓮華座に坐し飾りをつけないのが通例)。また、常光寺の居間の縁側で八尾の戦いの首実検を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、血天井として現存している。 家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えた。
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