家康の忠臣とは? わかりやすく解説

家康の忠臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 12:56 UTC 版)

藤堂高虎」の記事における「家康の忠臣」の解説

その後高虎徳川家重臣として仕え江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次改易伊勢津藩主・富田信高伊予宇和島藩への転封今治城周辺越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国10万石、並びに伊勢安濃郡一志郡10万石で計22万石加増移封され、津藩主となる。今治城高虎養子であった藤堂高吉城代として治めさせた。この伊賀国における筒井氏から藤堂氏への交代は、家康の対豊臣策の一環として理解するのが妥当で、豊臣恩顧大名ありながら家康側近ともいえる高虎伊賀与えたことは、大坂方を刺激することなく、しかも確実に徳川方勢力上方方面食い込ませる家康戦略よるものであった慶長19年1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する翌年大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒志願して八尾において豊臣方長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いで長宗我部軍の猛攻にあって一族藤堂良勝藤堂高刑をはじめ、600余り死傷者出している。戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡安芸郡三重郡一志郡内で5万石を加増され計27万石になり、同年6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行行った家臣渡辺了衝突決別している。 高虎はこの戦い戦没者供養のため、南禅寺三門再建創建当時三門文安4年1295年)に焼失していた)釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営安置している。梅原猛によれば、この釈迦如来像岩座坐し宝冠かぶった異形の像であり、高虎若しくは主君である徳川家康威厳象徴しているのではないかという(釈迦如来像蓮華座坐し飾りつけないのが通例)。また、常光寺居間縁側八尾の戦い首実検行ったため、縁側の板は後に廊下天井張り替えられ、血天井として現存している。 家康死去の際には枕元侍ることを許され家康没後第2代将軍徳川秀忠仕えた

※この「家康の忠臣」の解説は、「藤堂高虎」の解説の一部です。
「家康の忠臣」を含む「藤堂高虎」の記事については、「藤堂高虎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「家康の忠臣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「家康の忠臣」の関連用語

家康の忠臣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



家康の忠臣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藤堂高虎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS