八尾・若江の戦い
八尾の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:38 UTC 版)
萱振村に進んできていた長宗我部勢先鋒吉田重親は、藤堂勢中備藤堂高吉の攻撃をうけた。吉田は本隊に対し攻撃を受けている旨伝令し、応戦したが壊滅、吉田は戦死した。吉田の知らせをうけた長宗我部盛親は、長瀬川で迎撃の体勢を取った。 藤堂勢の左先鋒藤堂高刑、桑名吉成は道明寺へ向かう先頭にあったが、転進して玉串川を越え長瀬川の長宗我部盛親本隊に迫った。高虎の旗本藤堂氏勝もそれに続いた。盛親は騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて堤防の上に伏せさせた。藤堂勢が充分近づいたところで一斉に立ち、槍を入れさせた。藤堂勢は壊乱し、藤堂高刑、桑名吉成は戦死、藤堂氏勝は致命傷を負い退却中に死亡した。藤堂高吉も来援するが、長宗我部勢に圧倒され、撃退された。旧主と戦った中内源兵衛も討死した。 正午頃まで戦闘は続き、小康状態になったところで長宗我部勢は長瀬川堤で陣を整え、休息した。そこへ若江の木村重成の敗報が届いた。敵中での孤立をおそれた盛親は大坂城へ撤退した。
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