一門の筆頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:38 UTC 版)
慶長13年(1608年)、高虎が伊賀一国と中部伊勢で22万石を得て転封し、高吉は今治に残るということになった。高吉は、家康の指示で今治に残留することになり、越智郡で2万石を与えられ、竣工なったばかりの今治城を得た。藤堂藩の支藩今治藩の誕生である。早速、家臣団に知行地を宛行い、慶長14年9月に重臣の矢倉氏に400石を与えたことが確認される、また検地も実地されたようで、元和6年2月付の「越智郡古谷村検地帳」が伝来している。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として参戦し、夏の陣では長宗我部盛親隊を相手に活躍した(八尾の戦い)。 寛永7年(1630年)、養父の高虎が死去すると高吉は、葬儀に列席しようと、今治から江戸に向かった。その途中の近江水口で、本藩の使者によって説得され、代理として鎌田新兵衛を派遣し、高吉は今治に帰国した。家督が正式に決まっていなかったため、高次から相当の圧力がかかったとされる。
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