一門のエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:51 UTC 版)
「桂文楽 (8代目)」の記事における「一門のエピソード」の解説
本来の一番弟子は1920年(大正9年)入門の桂文弥(のちの三遊亭銀馬)。しかしすぐに2代目三遊亭金馬一門に移った。 早い時期の弟子として7代目橘家圓蔵がいる。しかし7代目圓蔵(当時は桂文雀)は一度破門されている(弟子として復帰するまで約20年のブランクを要した)。その理由は2つある。 1つは7代目圓蔵が師匠8代目文楽の金を日常的にくすねていたこと。 もう一つの理由は、上述されているように3度目の妻について落語家内で広まっていた悪い評判を8代目文楽に伝えたことだった。師匠のためを思ってしたことであったが、8代目文楽はこれで7代目圓蔵を完全に切り捨ててしまった。 8代目文楽死後17日後、6代目小勝も早世した。残された8代目文楽の弟子の多くが一門の総領弟子となった7代目橘家圓蔵門下となった(同じく8代目文楽一門の5代目小さん一門に入った者もいる)。 3代目桂三木助は日本芸術協会(現落語芸術協会)脱退後、落語協会に加入する際に、協会前会長8代目文楽の形式的な門下となった(いわゆる「身内となった」「内輪になった」)。 5代目古今亭志ん生が満洲国に巡業に行くため、留守中、2人の前座をそれぞれ他の師匠に預けた。8代目文楽に預けられたのは初代金原亭馬の助である。5代目志ん生の帰国まで、8代目文楽の弟子として修行した。 かつて初代桂小南門下で弟弟子だった8代目金原亭馬生(ゲロ万)は、二つ目時代のごく短期間、8代目文楽の門下に入った。彼に与えた名が初代桂文生。 孫弟子に林家三平と8代目橘家圓蔵がいる。5代目小さんの弟子は言うまでもなく多数ある。 孫弟子である8代目橘家圓蔵は、前座時代に8代目文楽の内弟子を務めた。8代目文楽の直弟子が昇進し、前座の手が足りなかったので孫弟子が交代で通っていた。8代目文楽の妻(4人目の妻)に気に入られ、実質的な内弟子となった。ここで8代目圓蔵は8代目文楽宅の女中(「ウチのセツコが…」の節子夫人)と出会い、結婚した。
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