建春門院の猶子
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長寛2年(1164年)4月、関白・近衛基実と宗盛の妹・盛子の婚姻が成立すると、宗盛は重衡と共に摂関家政所の別当になった。清盛の意図は二条天皇と摂関家に接近することで平氏の勢力を拡大することにあったが、永万元年(1165年)に二条上皇が、翌年に基実が相次いで死去したことで、後白河上皇を支持する方針に変わっていく。仁安元年(1166年)10月10日、後白河上皇は憲仁親王の立太子を行い、翌月には清盛を内大臣に任じた。宗盛は五節の節会において、重盛・知盛とともに舞姫を献じている。 翌仁安2年(1167年)5月に清盛は太政大臣を辞任、重盛が平氏の棟梁となる。8月、宗盛は位階が上の叔父・頼盛を超えて参議に補され、一門において重盛に次ぐ地位を確保した。翌月、後白河上皇と寵妃平滋子(建春門院、宗盛の生母時子の異母妹)は熊野参詣を行い、重盛・宗盛も付き従った。この時、重盛が後白河上皇の供をしたのに対して、宗盛は平時忠・平親宗(ともに時子と滋子の兄弟で、宗盛の伯父)らと並んで滋子の供をしている。宗盛は母・時子との関係から滋子の猶子となっていた。滋子が女御・皇太后・女院になった際には、家司・皇太后宮権大夫・女院別当となるなど一貫して滋子の側に仕え、妻に滋子の同母妹・清子(高倉天皇の典侍、中納言三位)を迎えている。宗盛が、母の出身である高棟流平氏と密接につながっていたことを物語っている。 嘉応元年(1169年)12月の嘉応の強訴で、後白河法皇は防御のために武士を招集する。武士を率いていたのは重盛・宗盛・頼盛で、兵力の内訳は重盛が200騎、宗盛が130騎、頼盛が150騎だった。宗盛は重盛・頼盛に次ぐ兵力を動員しており、平氏軍の中核を担うまでになっていた。嘉応2年(1170年)12月、宗盛は権中納言に昇進、翌年正月の高倉天皇元服の儀式では装束の奉仕を務めている。 この時期の重盛は殿下乗合事件で松殿基房と対立し、権大納言を辞任していた。重盛と宗盛の官位の差は徐々に狭まっていたが、承安元年(1171年)12月、重盛は権大納言に還任する。承安3年(1173年)、宗盛は滋子の御給で従二位に叙せられるが、重盛はそれより上の正二位・権大納言であり、両者の立場が入れ替わることはなかった。承安年間は安定期であり、官位の接近により重盛と宗盛の関係が悪化した形跡は見られない。安元2年(1176年)に催された後白河法皇の50歳の賀にも、宗盛は一門の筆頭である重盛に付き従って出席している。
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