建春門院の猶子とは? わかりやすく解説

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建春門院の猶子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:38 UTC 版)

平宗盛」の記事における「建春門院の猶子」の解説

長寛2年1164年4月関白近衛基実宗盛の妹・盛子の婚姻成立すると、宗盛重衡と共に摂関家政所別当になった清盛意図二条天皇摂関家接近することで平氏勢力拡大することにあったが、永万元年1165年)に二条上皇が、翌年に基実が相次いで死去したことで、後白河上皇支持する方針変わっていく。仁安元年1166年10月10日後白河上皇憲仁親王立太子行い翌月には清盛内大臣任じた宗盛五節節会において、重盛知盛とともに舞姫献じている。 翌仁安2年1167年5月清盛太政大臣辞任重盛平氏棟梁となる。8月宗盛位階上の叔父・頼盛を超えて参議補され一門において重盛に次ぐ地位確保した翌月後白河上皇寵妃平滋子建春門院宗盛生母時子異母妹)は熊野参詣行い重盛宗盛付き従った。この時、重盛後白河上皇の供をしたのに対して宗盛平時忠平親宗(ともに時子滋子兄弟で、宗盛伯父)らと並んで滋子の供をしている。宗盛は母・時子との関係から滋子猶子となっていた。滋子女御皇太后女院になった際には、家司皇太后宮権大夫女院別当となるなど一貫して滋子の側に仕え、妻に滋子同母妹・清子高倉天皇典侍中納言三位)を迎えている。宗盛が、母の出身である高棟流平氏と密接につながっていたことを物語っている。 嘉応元年1169年12月嘉応の強訴で、後白河法皇防御のために武士招集する武士率いていたのは重盛宗盛・頼盛で、兵力内訳重盛200騎、宗盛130騎、頼盛が150騎だった。宗盛重盛・頼盛に次ぐ兵力動員しており、平氏軍中核を担うまでになっていた。嘉応2年1170年12月宗盛権中納言昇進翌年正月高倉天皇元服の儀式では装束奉仕務めている。 この時期重盛殿下乗合事件松殿基房対立し権大納言辞任していた。重盛宗盛官位の差は徐々に狭まっていたが、承安元年1171年12月重盛権大納言還任する。承安3年1173年)、宗盛滋子御給従二位叙せられるが、重盛それより上の正二位権大納言であり、両者立場入れ替わることはなかった。承安年間安定期であり、官位接近により重盛宗盛の関係が悪化した形跡見られない安元2年1176年)に催され後白河法皇50歳の賀にも、宗盛一門の筆頭である重盛付き従って出席している。

※この「建春門院の猶子」の解説は、「平宗盛」の解説の一部です。
「建春門院の猶子」を含む「平宗盛」の記事については、「平宗盛」の概要を参照ください。

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