建文帝による削藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:54 UTC 版)
建文帝は即位後、ただちに藩を削りはじめた。削藩の順序では、斉泰は最も実力のある燕王を先に削らねばならないと考えていた。戸部侍郎の卓敬も、燕王の封地を南昌に改めるべきと上疏した。しかし、黄子澄は反対した。燕王は功があるため、世論の支持を得るため、まずは問題のある親王から手を出すべきとした。建文帝は黄子澄を支持したので、5人の親王を順次廃止した。 洪武31年(1398年)7月、周王朱橚を削藩の対象とした。周王は燕王の同母兄弟であったので、建文帝は彼が燕王と合同することを恐れ、周王を先に廃することにした。周王の次男の朱有爋(中国語版)が、父を謀反の罪で告発した。曹国公李景隆が備辺の名目で開封を経由するように派遣され、周王と家族を南京まで連行した。周王は廃位され、庶民に落とされた上で雲南蒙化に送られた。 建文元年(1399年)4月、斉王朱榑・湘王朱柏・代王朱桂の三親王を削って庶民に落とした。湘王は恥辱に耐えられず、名誉を保つため、自ら宮殿に火を放って家人と共に焼死した。斉王は南京に軟禁され、代王は封地大同に軟禁された。それから二カ月後、岷王朱楩が削られて庶民とされ、漳州に送られた。 建文帝による削藩によって、藩鎮と中央の決裂が表面化し、最強の実力を持つ燕王こそが真の諸王の統率者と目されるようになった。そして、皇帝と燕王の対立は激しさを増していった。
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