李景隆とは? わかりやすく解説

李景隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/16 14:09 UTC 版)

李 景隆(り けいりゅう、? - 1423年)、幼名九江は、初の官僚・将軍。洪武帝の外甥(姉の息子)である李文忠の子で、父の爵位を継いで曹国公に封じられた。靖難の変の時には建文帝側の大将を務めるが、しばしば燕王朱棣に敗北した。朱棣南京に迫ると、谷王朱ケイと共に金川門を開いて投降。これによって南京は陥落、建文帝は消息を絶ち、朱棣は永楽帝として即位した。永楽2年(1404年)に爵位を剥奪・拘禁され、永楽末年に死去した。

生涯

洪武年間

洪武帝に仕えた李文忠の長男として生まれる。幼少期から兵法書を愛読し、故事にも通じていた。長身で眉目秀麗、立ち振る舞いも鷹揚かつ華やかであったため、洪武帝からは目をかけられていた。

しかし父・李文忠は多くの武功を挙げたため洪武帝に危険視され、1384年洪武17年)の粛清に際し自殺させられた。李景隆は2年後の1386年にその爵位を相続し、さらに翌年(1387年)にはナガチュへの北伐にも従軍した[1]。その後はしばしば湖広陝西河南で練兵を行い、西蔵と馬の交易を行った。さらに左軍都督府事に昇進し、太子太傅にも任ぜられた[2]

建文年間

洪武31年(1398年)に洪武帝が崩御し、皇太孫の朱允炆が建文帝として即位すると、李景隆は大いに信任されるようになった。7月には備辺を命ぜられ、各地に封ぜられていた藩王たちの勢力を削る手始めとして、周王朱シュクを南京へと連行する[3]。その他の藩王も次々に処分されていく情勢に危機感を覚えた燕王朱棣は、靖難の変と呼ばれる反乱を起こした。

建文帝側の大将は当初耿炳文であったが、彼が真定(現在の河北省正定県)で朱棣軍に敗北すると、黄子澄らに推挙された[注釈 1]李景隆が大将軍に任命された。建文帝は李景隆に通天犀帯(通天犀があしらわれた腰帯、帝王が重臣に恩賜するもの)と50万の軍勢を与え、行軍路の諸州に対しては李景隆に便宜をはかるよう命じた。しかしながら、李景隆は家柄こそ良いものの軍事的才能は凡庸であり、そのうえ傲慢な態度から宿将の反感を買っていた。それを知っていた朱棣は、李景隆が大将ならわが軍の勝利は間違いないと喜んだという[4][注釈 2]

建文元年(1399年)9月、江陰侯呉高らが永平府を攻撃すると、朱棣はその救援に向かった。この隙に李景隆は北平を攻撃したが、留守を任されていた長男の朱高熾(のちの洪熙帝)はよく防衛した。さらには、都督の瞿能がもう少しで張掖門を突破できそうだというときに、手柄を取られることを恐れた李景隆が攻撃をやめるよう命じてしまった[4]。一方朱棣は呉高らを破ると大寧へと転進し、寧王朱権およびウリヤンハイ三衛を味方につけてから北平の救援に戻った。李景隆軍は鄭村壩[注釈 3]でこれを迎え撃った(鄭村壩の戦い中国語版)が、結果は李景隆軍の大敗に終わった。李景隆は北平を包囲していた部隊に知らせることすらせず、装備を捨てて徳州へと敗走した。このため北平包囲隊も壊滅し、数十万人分の輜重はすべて燕軍のものとなった[6]

翌建文2年(1400年)1月、朱棣が大同を攻撃すると李景隆は救援に向かったが、成果はなかった。李景隆の権威が不足しているのではないかと考えた建文帝は、璽書とともに黄鉞・弓矢を与えることにした。しかし使者の船は長江を渡る際に暴風雨によって沈没してしまい、下賜品もすべて失われてしまった。建文帝は、これらの品を李景隆の手に渡らせるため、制度を変えてもう一度下賜した[2]

4月、李景隆は武定侯郭英、安陸侯呉傑とともに、60万と号する大軍で北進し、白溝河中国語版(現在の河北省雄県)にて燕軍と会戦した(白溝河の戦い中国語版)。その最中、つむじ風が吹いて李景隆の将帥旗が折れ、李景隆軍は混乱に陥った。燕軍はその隙を見逃さず、李景隆軍の背後に火を放ち、これを大いに打ち破った[7]。李景隆は武具や輜重のみならず、下賜された璽書や斧鉞などをもすべて放棄して徳州まで撤退、その徳州も落とされると済南へと敗走した[2]。度重なる敗戦と失態に、李景隆を推挙した黄子澄も憤激し、死をもって償わせるべきだと主張した。建文帝は李景隆を誅殺することはしなかったものの、さすがに大将軍からは罷免し、盛庸をその後任に据えた[8]

建文4年(1402年)6月に入り、燕軍がいよいよ長江を渡ると、建文帝は兵部尚書茹瑺、都督王佐とともに李景隆を派遣して講和を申し入れたが、交渉は失敗に終わった。13日、南京城下に迫った燕軍に対し、李景隆と谷王朱ケイは金川門を開いて投降(金川門の変中国語版)。南京は陥落し、建文帝は王宮に火を放って行方知れずとなった。

永楽年間

朱棣が即位して永楽帝となると、皇帝の近親であったことより死一等は減じられた。しかし政治舞台からは失脚し、死後には全ての官位と爵位が剥奪された。

脚注

脚注

  1. ^ 『明史』巻126李文忠伝によれば、黄子澄のほか斉泰も李景隆を推薦したという。一方、巻141斉泰伝は、李景隆を推す黄子澄に対し、斉泰は強く反対したが聞き入れられなかったとする。同黄子澄伝では、斉泰と議論になったかどうかは記述がない。
  2. ^ 『明太宗実録』によれば、朱棣は配下の諸将に対し、李景隆の弱点として、軍規を厳正に保てていない点、兵士が北の寒さに慣れていない点、十分な備えもないのに危険を冒す点、うわべの態度は立派だが本質は智勇の両者を欠いている点、忠言を遠ざけおべっかを好む点の五つを挙げ、趙括(戦国時代の将軍。李景隆と同じく名将の息子で、君主の期待を背負い大軍を率いて出陣したが、惨敗して戦死)と同じ轍を踏むだろうと語ったという。
  3. ^ 壩は堰堤の意。北平城外5km地点の地名[5]

出典

  1. ^ 明史』(巻129):二十年命胜为征虏大将军,颖国公傅友德、永昌侯蓝玉为左右副将军,帅南雄侯赵庸等以步骑二十万征之。郑国公常茂、曹国公李景隆、申国公邓镇等皆从。
  2. ^ a b c 『明史』巻126李文忠伝。
  3. ^ 『明鑑綱目』巻1:「乃命曹国公李景隆以备边为名,猝至开封,围王宫,执之以归。」
  4. ^ a b 『明史』巻126李文忠伝、『明太宗実録』巻4等。
  5. ^ 楊士奇五言律詩「鄭村壩」:「十里都城外,天清见远山。」
  6. ^ 『明史』巻126、『明太宗実録』巻5。
  7. ^ 『明太宗実録』巻6、『明通鑑』巻12等。
  8. ^ 『明史』巻126、『明史紀事本末』巻16等。




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