家康入門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 04:58 UTC 版)
文禄3年(1594年)5月、豊前国の大名・黒田長政の取成しで京都鷹が峰、御小屋で豊臣政権の重鎮五大老・徳川家康に招かれ、家康本人を相手に無刀取りの術技を示す。家康はその場で宗厳に入門の誓詞を提出し、二百石の俸禄を給した。この時宗厳は自らの側で出仕するよう家康から求められたともいうが、固辞して同行していた五男の柳生宗矩を推挙したと『柳生家史話』では伝えている。 この頃宗厳は、家康と同じ五大老の毛利輝元に対しても、兵法を継続的に教授しており、文禄4年(1595年)からの数年間で複数の伝書を授与している。兵法を通じて徳川と毛利両家からの援助を得ても、依然として柳生家は困窮しており、文禄4年7月には旅先から妻に宛てて、もし自分が死ぬことがあれば茶道具を売り払って葬儀の費用に当てるよう、遺言を残している。この中で宗厳は遺産について妻女の取り分の残りを宗矩に与えるよう指示しており、この時点で宗矩を跡継ぎと見なしている様子がある。 慶長3年(1598年)8月に豊臣秀吉が没すると、家康と輝元は豊臣政権の主導権をめぐって徐々に対立するが、家康に宗矩を仕えさせつつ自らは輝元にも兵法を指南する状況はしばらく続いた。慶長4年(1599年)3月、輝元に対し皆伝印可として起誓文を与える。この中で宗厳は、これまでの数年間に渡る輝元からの「扶助」について礼を述べ「兵法之極意傳を少しも残らず相伝したこと」を記すと共に、「兵法」だけに限らず「表裏別心のない」ことを自ら誓っており、関ヶ原の戦い前年のこの時点での宗厳はむしろ毛利寄りという意見もある。
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