家康と宗教とは? わかりやすく解説

家康と宗教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「家康と宗教」の解説

戦国時代最大武装宗教勢力であった一向宗は第11門主顕如死後顕如長男教如三男准如対立し教如独立する形で東本願寺真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如西本願寺浄土真宗本願寺派)を設立し東西本願寺分裂するが、この分裂劇に関与しているのも家康である。一説によると、若き日三河一向一揆苦しめられたことのある家康が、本願寺勢力弱体化させるために、教如唆して本願寺分裂させたと言われているが、明確にその意図記され史料がないため断定できない。しかし、少なくともこの分裂劇に際し教如支持して東本願寺土地寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派教如東本願寺設立家康関与があったことは認めている)。 現在の真宗大谷派は、このときの経緯について、「教如法主退隠してからも各地門徒名号本尊消息手紙)の配布といった法主として活動続けており、本願寺教団関ヶ原の戦いよりも前から准如法主とする一派教如法主とする一派分裂していた。徳川家康寺領寄進本願寺分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団現状追認したに過ぎない」という見解示している。 東西本願寺分立後世に与えた影響については、『戦国時代には大名匹敵する勢力誇った本願寺分裂し弱体化余儀なくされた』という見方存在するが、前述通り本願寺武装解除顕如准如派と教如派の対立信長秀吉存命ころから始まっており、また江戸時代同一宗派内の本山脇門跡という関係だった西本願寺興正寺が、寺格巡って長らく対立して幕府介入招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立果たしたことは、むしろ両本願寺宗政安定させた可能性否定出来ないちなみに三河一向一揆起こった際、敵方一向宗側には本多正信夏目吉信など、家康家来だった者もいた。だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ本多正信家康晩年まで参謀として活躍し夏目吉信三方ヶ原の戦い家康身代わりになって戦死したまた、同様に町衆対し強い影響力有する日蓮宗に対しても、秀吉命じた方広寺大仏殿千僧供養時に他宗布施を受けることを容認した布施派と、禁じた宗義従った不受不施派の内、後者家康公儀従わぬ者として日蓮宗他宗への攻撃色が強いことも合わせて危険視した。そのため、後の家康出仕命令従わぬ不受不施派日奥対馬国配流したり、他宗への攻撃激し日経らを耳・鼻削ぎの上追放した家康死後不受不施派江戸幕府布施供養受けぬことを理由として、江戸時代通じて弾圧され続けた。 これら新興宗派以外の古い天台宗真言宗法相宗にも独占した門跡通じ朝廷との深い繋がり懸念し新たに浄土宗知恩院門跡加え、さらに天台宗関東における最高権威として輪王寺門跡設けた。これら知恩院輪王寺江戸幕府と強い繋がり持った一方でキリスト教に対して秀吉死後南蛮貿易による収益などの観点から当初容認しており、実際に江戸時代初期キリスト教東北地方への布教行っている。しかしマードレ・デ・デウス号事件岡本大八事件経て慶長18年1613年)にバテレン追放令公布する家康死後幕府寺請制度等により、寺社勢力を完全に公儀の下に置くことに成功している。また、家康自身東照神君として信仰対象になった

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