家康と同時代の人々とは? わかりやすく解説

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家康と同時代の人々

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)

徳川家康」の記事における「家康と同時代の人々」の解説

家康は、武田信玄尊敬し武田氏遺臣から信玄戦術思想積極的に学んだ。その反面信長のように身分序列無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣増やすこともなかった。家康重臣のほとんどは三河以来代々仕えてきた家臣たちであった。 そのためか、彼らに天下統一され遅れをとったが、代わりに自身信頼できる部下だけで周囲固め豊臣政権不備もあって天下人となったとはいえ、その部下中には今川氏武田氏北条氏等の自身直接主導)的には滅ぼしてはいない大名家臣含まれているため一種漁夫の利統一の際の汚れ役信長秀吉被ってくれた)ともいえる。一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択その時流や自分状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もできる。 その戦振りに関しては、秀吉から「海道一の弓取り」と賞賛されたと伝わる。家康は常に冷静沈着知将だったとされているが短気神経質な一面持ち関ヶ原の戦いでは開戦間際において一面垂れ込める霧の中で使番野々村四郎右衛門方向感覚を失い陣幕に馬を乗り入れた際に苛立ち、門奈長三郎という小姓侵入者何者尋ねるが、門奈は侵入者誰だ知っていたが当人責任掛からないように配慮し答えなかった。家康は門奈のこの態度腹を立て、門奈の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。さらに家康苛立ったり、自分不利になったりすると、親指の爪を常に噛み時には皮膚破って血を流すこともあったという。その一方怒り任せ家臣領民手打ちにするようなことは生涯ほとんどなかった。幼少期今川家人質だったころ自分辛く当たった今川方の孕石元泰後年探しだし切腹させた(『三河物語』)のは例外的処置である。 情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、法よりも人情優先させた事例もある。例え三方ヶ原の戦い家康身代わりとなって討死した夏目吉信の子規律違反犯して超法規的赦し関ヶ原の合戦後に真田信之本多忠勝らの決死嘆願真田昌幸助命している。特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係厚く三方ヶ原の戦い三河武士背を向け死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「のように忠実と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだが、一向一揆起こされたことも考慮する必要がある無論有能な人材重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏武田氏北条氏旧臣多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人学者さらには英国人ウィリアム・アダムス外国人武士として知行与えたのは家康のみ)と実力考慮して登用し江戸幕府基礎作り上げていった。

※この「家康と同時代の人々」の解説は、「徳川家康」の解説の一部です。
「家康と同時代の人々」を含む「徳川家康」の記事については、「徳川家康」の概要を参照ください。

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