開館前
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「みんなの森 ぎふメディアコスモス」の記事における「開館前」の解説
岐阜市は公共施設の再集約や中心市街地の活性化などを図る「つかさのまち夢プロジェクト」を計画した。プロジェクトの第1期には岐阜大学医学部跡地に新図書館を建設し、第2期には新図書館の南側(2016年時点では暫定的に駐車場)に岐阜市役所新庁舎を建設し、第3期には現行の岐阜市役所本庁舎跡に市民文化ホールを建設する。プロジェクトの財源には、国からの補助金、蓄えてきた基金、有利な起債を最大限に利用している。 2005年度に基本構想を策定し、2010年度に基本計画を策定して設計者を選出した。設計プロポーザルには全国から70人の応募があり、まずは選考委員会が3者に絞ると、2011年(平成23年)2月6日の公開プレゼンテーションで伊東豊雄建築設計事務所を設計者に選出した。伊東は仙台市民図書館を内包するせんだいメディアテークや多摩美術大学八王子図書館の設計者でもあり、後の2013年(平成25年)にはプリツカー賞を受賞している。2012年度時点では総工費を100億円と見込んでおり、国からの補助金などを活用することで、岐阜市の負担は約30億円となる予定だった。しかし、最終的な総事業費は125億円に膨らんだ。 岐阜市は2013年度末の工事完成、2014年(平成26年)秋の開館を目指していたが、耐火構造などの点が問題視された。国土交通省からの認定取得が遅れて着工がずれ込み、開館予定時期が2015年(平成27年)春に延期された。また、うねりのある木造屋根など特殊な構造が影響し、2013年2月には本体工事の一般競争入札に参加申込をしていた共同事業体すべてが辞退。このために入札が成立せず、開館予定時期が再び遅れて2015年夏以降となった。 2013年6月の岐阜市議会では、メディアコスモス関連の議案が賛成多数によって可決されたが、日本共産党議員などからは、巨額の予算をかけることに疑問の声が上がっている。5月30日に行われた2度目の入札では、戸田建設・大日本土木・市川工務店・雛屋建設社共同事業体の落札が決定し、7月に施工を開始した。 2014年2月の岐阜市長選挙では、現職の細江茂光以外の2候補が「(メディアコスモス関連事業の)検証が必要」と訴えたが、細江は僅差で4期目5選を果たしている。メディアコスモスの整備に多額の費用を投じるため、岐阜市の2014年度一般会計予算案は過去最高の約1583億円となった。格子状の屋根の組み立ては2014年6月末から9月末まで約100日間を要しており、約8,500人工が参加している。建物は2015年2月12日に竣工し、その後内装工事が行われて書籍が運び込まれた。 2011年度には施設名称の全国公募を行った。1,386点の応募作品の中から「メディアコスモス」に決定し、その後岐阜市によって「みんなの森」が添えられている。オープン後の館内表示・案内サインへの活用のほか、施設及び施設が行うイベント等の広報ツールとして、2013年8月8日から9月27日にかけて「ロゴ」及び「シンボルマーク」を募集され、3名の外部選考委員により選考された作品に一部修正を加えたものに決定した。 館長も全国公募が行われ、2015年4月には吉成信夫が就任した。吉成はこの時まで岩手県のNPO法人「岩手子ども環境研究所」(森と風のがっこう)で理事長を務めており、2003年から7年間は岩手県立児童館 いわて子どもの森の館長を務めている。2015年3月29日には岐阜市立図書館本館が閉館し、移転準備期間に入った。
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開館前
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1966年(昭和41年)には大松紡績旧講堂を取得して岩倉町立公民館とし、1971年(昭和46年)12月1日に丹羽郡岩倉町が単独市制施行して岩倉市となると、岩倉市立公民館に改称した。やがて建物の老朽化や都市計画道路との兼ね合いなどが理由で新館の建設を決定し、1976年(昭和51年)4月1日には昭和町に岩倉市公民館が開館した。 1978年(昭和53年)に岩倉市が市民に対してアンケートを行ったところ、図書館設置に対して強い要望があったことから、1979年(昭和54年)8月31日には岩倉市図書館準備委員会を設立し、1980年(昭和55年)3月8日には意見書を提出、1981年(昭和56年)7月7日には岩倉市議会内に公共施設調査研究特別委員会を設置し、同年12月25日に答申を提出した。 図書館計画は日本図書館協会に委託し、1982年(昭和57年)3月31日に計画書の提出を受けた。4月1日には図書館建設準備室を設置し、6月3日には名古屋市の丹羽英二建築事務所を設計者に選定した。丹羽英二建築事務所は1981年に名古屋市鶴舞中央図書館を手掛けた建築設計事務所であり、長久手市中央図書館(1992年)、平塚市西図書館(1993年)、しんせいほんの森(1996年)、刈谷市富士松図書館(1999年)も手掛けている。総工費3億7318万円をかけて、1983年(昭和58年)3月24日には建物が竣工した。
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開館前
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瀬戸焼が生まれた瀬戸は古くから「焼き物の町」として栄え、「瀬戸物」は陶磁器の総称として一般名詞化した。瀬戸は「尾張の小江戸」とも呼ばれる職人の町だった。第一次世界大戦時にはアメリカ合衆国や中国への輸出で活況を呈し、1929年(昭和4年)には愛知県で5番目に市制を施行して瀬戸市が誕生した。 市と名のつく瀬戸に図書館一つないなんて、凡そ、嘘のような気がするが、残念乍ら、今までなかったのである。瀬戸市に図書館がないなどといふことは恥ずかしいことである。 — 図書館設置運動を牽引した『陶都新聞』の記事、開館3年半前の1942年2月22日 1940年代前半の愛知県においては、名古屋市(名古屋市図書館)、豊橋市(豊橋市図書館)、岡崎市(岡崎市立図書館)、半田市(半田市立図書館・半田市立亀崎図書館)、一宮市(一宮市立図書館)などの各市に加えて、海部郡津島町(津島町立図書館)、南設楽郡新城町(新城図書館)、碧海郡刈谷町(刈谷町立刈谷図書館)、碧海郡新川町(新川町立新川文庫)、知多郡阿久比村(阿久比村立図書館)、知多郡横須賀町(横須賀町立図書館)、知多郡大高町(大高町立図書館)、などの各町にも図書館が設置されていた。ローカル紙である陶都新聞は図書館設置に向けた運動を展開し、市民に対して図書の寄贈を呼び掛けた。戦中には瀬戸市出身の前線の兵士からも、図書や寄付金が寄せられたという。 1941年(昭和16年)には瀬戸図書館開設準備委員会が発足しているが、市民生活が厳しさを増した1942年(昭和17年)後半には図書館設置運動が陰りを見せた。1943年(昭和18年)には市民からの募金のみで準備費用を賄っていたが、瀬戸市は1944年(昭和19年)に初めて図書館予算を計上し、司書を採用して開館準備にあたらせた。戦時中ということもあって新刊はほとんど出版されておらず、古本を買い集めて蔵書を揃えている。1944年から1945年(昭和20年)には瀬戸市街地も空襲に遭い、集めていた図書の一部が共存園北分室に疎開したと伝えられる。
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開館前
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1999年(平成11年)時点では町内の5つの公民館で計約2,000冊の図書を所蔵していた。少年時代を美浜町で過ごした医師の皿井進(大同病院・だいどうクリニック院長)から「美浜町の子どもたちの役に立ててほしい」として寄付を受け、美浜町は図書館と生涯学習センターの複合施設の建設を計画した。1998年(平成10年)11月に美浜町生涯学習基本構想が策定され、設計コンペによって名古屋市の国分設計を設計者に選出。1999年9月に図書館と生涯学習センターを併設する複合施設の基本設計を終え、2000年(平成12年)から三井建設・河和建設共同企業体(JV)によって建物が建設された。 幅広い心と教養を育んでもらいたいという気持ちから、武道家の藤平光一によって心育館(しんいくかん)と命名された。心育館の正面玄関前には藤平光一が揮毫した石碑が建立され、彫刻家の西川吉彦(美浜緑苑在住)が製作したモニュメントが設置された。2001年(平成13年)10月には施設が完成し、館内の事務所で利用カードの申込受付などを開始した。竣工式にはニール・フック駐日英国総領事が出席し、齋藤宏一美浜町長とともに記念植樹を行った。
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開館前
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「西尾市立一色学びの館」の記事における「開館前」の解説
1971年(昭和46年)4月には幡豆郡一色町に一色町勤労青少年ホームが開館し、館内にはホーム図書室が設けられた。図書館未設置時代には愛知県図書館の移動図書館車「いずみ号」も一色町を巡回している。 1978年(昭和53年)4月には一色町立一色中学校が坂田地区に移転した。これにともない、1980年度と1981年度の2か年事業として一色町公民館が建設されることとなった。1981年(昭和56年)11月1日には一色町公民館が開館し、同年12月には公民館図書室が一般に開放された。 1986年度(昭和61年度)には一色町公民館を含む敷地が、愛知県と一色町が共同で整備を進める一色地域文化広場に指定された。一色地域文化広場は総合的な文化広場であり、その敷地面積は約27,600m2と広大である。愛知県下の13の広域行政圏のうち、一色地域文化広場は11番目の複合的文化施設として整備されている。1986年(昭和61年)11月には一色町公民館の隣接地に一色町生きがい健康センターが着工され、1988年(昭和63年)11月8日に一色町生きがい健康センターが開館した。
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開館前
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「静岡シネ・ギャラリー」の記事における「開館前」の解説
静岡市街地におけるサールナートホールの位置 臨済宗妙心寺派宝泰寺の後継ぎである藤原靖爾(藤原東演)は、戦中の1944年(昭和19年)11月に静岡県静岡市に生まれた。京都大学法学部在学中には外交官になりたいという夢を持ち、また司法試験を受けたこともあった。父親の死去によって1994年(平成6年)に宝泰寺の住職となった。藤原は1995年(平成7年)に株式会社サールナートホールを設立。同年4月9日に宝泰寺の檀信徒会館であるサールナートホールが開館した。当初は葬儀や法要を主要な事業に想定していたが、一般市民向けのコンサートなどの文化事業も手掛けている。 1995年(平成7年)10月にはメインホールで名作映画の会員制上映会「シネ・サロン」をスタートさせた。月2回の頻度で開催され、各回の上映前に映画評論家の石原郁子による作品解説がつく。第1回はルキノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(1971年、イタリア=フランス合作)、第2回はフェデリコ・フェリーニ監督の『道』(1954年、イタリア)、第3回はゲオルギー・シェンゲラーヤ(英語版)監督の『放浪の画家ピロスマニ』(1969年、グルジア)だった。 メインホールの会員制上映会は東京・神田神保町の岩波ホールを目標に挙げ、地方都市で上映されることの少ない独立プロやミニシアター系の作品を35ミリフィルムで上映した。しかしメインホールは常設の映画館ではなく多目的施設であり、作品の上映期間や上映回数に制限があった。このために上映用の作品を求めても配給会社から断られることもあった。メインホールでの映画上映会では、8年間で約900本の作品を上映してきた。 2000年(平成12年)の静岡市には14館の映画館があったが、すべての館が映画館の街として知られる七間町にあり、JR静岡駅前などに映画館は存在しなかった。
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開館前
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静岡市葵区七間町は「映画館の街」として知られ、静活株式会社は七間町で静岡オリオン座など4館9スクリーンの映画館を運営していた。2010年(平成22年)時点で七間町には5館13スクリーンが集まっており、静活の佐藤選人支配人は「『映画街』がこれだけの規模で残るのは、全国でも七間町だけ」と話す。 2000年代には同一施設に多数のスクリーンを持つシネマコンプレックス(シネコン)が日本各地に広がりを見せた。2009年(平成21年)に閉店となった新静岡センターの跡地が再開発されるにあたって、静活は七間町の映画館の機能を移すシネコンの建設を計画した。2011年(平成23年)10月5日に複合商業ビル「新静岡セノバ」が開店し、同時に新静岡セノバ9階にシネシティザートが開館した。 静岡市のシネコンとしては清水区のMOVIX清水に次いで2か所目であり、旧清水市を除けば初めて開館したシネコンである。シネシティザート開館直前の10月2日には、七間町で静活が運営する映画館が一斉に閉館。これによって七間町の映画館は日映株式会社が運営する静岡東宝会館のみとなった。
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開館前(〜2016年11月)
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「すみだ北斎美術館」の記事における「開館前(〜2016年11月)」の解説
葛飾北斎は現在の墨田区亀沢で生誕し、その生涯のほとんどを区内で過ごしたとされている。墨田区はこの偉人を顕彰し、地域振興の一環として美術館を建設することになった。総工費は約34億円。 美術館建設の構想は1989年(平成元年)頃からあり、基本計画を策定し、1993年(平成5年)に建設予定地を購入したが、財政難により2000年(平成12年)にいったん凍結された。2006年(平成18年)に新タワー(東京スカイツリー)建設地が業平・押上地区に決定すると、凍結された美術館建設計画が復活した。建設予定地の緑町公園付近は、江戸時代に弘前藩津軽家の上屋敷があり、美術館建設にあたり埋蔵文化財調査のための発掘が行われた。 ロゴマークは、2009年度の公募で国内外から集まった1,634点から選ばれた高瀬清二の図案を原案として、勝井三雄が形を整えるとともにフォントをデザインした。 2013年(平成25年)9月、建設にあたり入札が行われたが予定価格が過小に見積もられたため応札業者が出ず、計画を見直す事態となった。
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