開館前史(1889-1945)
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「市立飯山図書館」の記事における「開館前史(1889-1945)」の解説
現行の飯山市域では、1889年(明治22年)10月に下水内郡教育会が図書館を開設した。この図書館は下水内郡からの補助金と教育会の会費で図書購入費を賄い、貸し出しも行っていた。1909年(明治42年)4月には、飯山尋常高等小学校(現・飯山市立飯山小学校)の1室へ移り、「下水内郡教育会図書館」として活動を開始した。同年、5か年計画で毎年郡から200円と、教育会の会員俸給の1000分の2を拠出して図書館費に充てることを決定した。1911年(明治44年)4月には巡回文庫を開始した。この頃の図書館は、長野県庁から150円の補助金を獲得するなど精力的に運営してきた。 1926年(大正15年)、郡制の廃止により下水内郡からの補助金が消滅したため教育会による運営が困難となり、下水内郡教育会は飯山町へ図書館を寄付し、飯山町立図書館となる。町立図書館は第二次世界大戦中も運営を継続したが、1945年(昭和20年)に終戦後の混乱により閉館した。
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開館前史(1899-1923)
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「飯田市立上郷図書館」の記事における「開館前史(1899-1923)」の解説
下伊那郡上郷村では、集落ごとに1899年(明治32年)に上黒田文庫と下黒田文庫、1905年(明治38年)に戦役記念上郷文庫、1915年(大正4年)に御大典記念飯沼文庫と別府文庫が相次いで開館したが、蔵書数は各々300 - 400冊程度で、その内訳も二宮尊徳や浄土教など前時代の思想に立脚したものが多く大正デモクラシーの風潮に沿ったものではなかった。そこで1922年(大正11年)4月1日、官製組織から自主的な組織へと脱皮した上郷青年会は、評議員会の席で、自ら選書し自由に勉強できる「上郷文庫」を設立することを正式に決定した。同年7月1日には1,500円を目標に定め、寄付金集めを開始した。 一方、大正時代の上郷村は、配電権を握っていた伊那電気鉄道(伊那電)が、幹線のみ整備し他地域に配電するには建設費がかかるとして、地元負担を求めて工事を行わなかったため、村営の電気事業(村電)を起こそうとしていた。長野県庁は伊那電に補助金を拠出していたこともあり伊那電側を支持し、長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)を上郷村に移転するので3万円を寄付せよ、と申し入れてくる有様であった。こうした県の対応に村民は憤慨し県税不払い運動を起こすと共に、258人の陳情団を結成して長野県庁へ押し掛けるという行動に出た。陳情団と面会した時の長野県知事・岡田忠彦は相手が交渉に慣れていないと見るや「村長はすでに村営を諦め、伊那電と妥協しようと考えている」と嘘をついて揺さぶりをかけ、陳情団を軽くあしらった。 悔しい思いをした陳情団の中には青年会の幹部が3人参加しており、上郷村への帰路に長野市や松本市の図書館を視察し、知事や伊那電と互角に渡り合うためにも読書をして勉強する必要を感じ、上郷文庫の実現に向けて奔走した。また資本家に対抗するために民衆が団結して闘おうという宣言を採択、徳富蘇峰・長谷川如是閑・吉野作造らから激励を受けた。村電運動が一段落した1922年(大正11年)11月より寄付金集めを本格化させ、村内約500戸を回って目標額をほぼ達成し、文庫規則の制定、机や書架の購入、文庫設置場所の決定を行った。続いて選書に入ったが様々なジャンルから数百冊を選ぶという初めての経験を前に難航し、1923年(大正12年)2月に村長のいとこであった衆議院議員・樋口龍峡の仲介で帝国図書館に助言を求めることにした。帝国図書館は神田古書店街での購入を薦め、無事発注を済ませたが、不運にも同年9月1日に関東大震災が発生し、上郷村に届いたのは発注したおよそ半数の約270冊にとどまった。その内訳は純文学が最多で、社会科学(政治・経済・社会問題)、宗教・哲学がこれに続いた。特に白樺派や民本主義の著者の本が多かったという。
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開館前史(1924-1945)
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「指宿市立図書館」の記事における「開館前史(1924-1945)」の解説
1924年(大正13年)1月24日に図書館費補助規定が制定されたことを受けて、同年7月1日に指宿村立図書館と今和泉村立図書館が創立した。指宿村立図書館は独立した建物を持ち、今和泉村立図書館は村役場に併設されていた。1931年(昭和6年)4月1日時点の蔵書数は指宿村立図書館が630冊、今和泉村立図書館が895冊であった。1933年(昭和8年)に指宿村立図書館は指宿町立図書館に改称したことは分かっているものの、第二次世界大戦中の図書館の活動記録は現存せず、混乱の中で自然消滅したものと見られている。
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開館前史(-1974)
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「津市図書館」の記事における「開館前史(-1974)」の解説
1909年(明治42年)に安濃郡建部村・塔世村が津市に編入された際に、報償金で図書館を設置することを議決し、翌1910年(明治43年)に安濃郡会で郡立図書館の設立を議論、1911年(明治44年)4月1日に新町大字古河にあった安濃郡庁内に安濃郡立図書館が開館した。1912年(明治45年/大正元年)時点の蔵書数は866冊(うち洋書2冊)、閲覧者数1,020人で、1921年(大正10年)には蔵書数2,317冊、閲覧者数1,470冊に増えた。しかし郡制の廃止により、1922年(大正11年)に安濃郡農会図書館に移行した。その後の動向は不明で、1937年(昭和12年)度末の三重県内の図書館一覧には安濃郡農会図書館は掲載されていない。 1960年代当時の津市には、中央公民館、一身田公民館、白塚公民館の3つの公民館があり、一身田公民館には図書室が設けられていた。一身田公民館図書室は1966年(昭和41年)時点で1,600冊を所蔵していたが、図書購入費が不足していたため、三重県立図書館の貸出文庫から毎月図書を借り受けて不足分を補っていた。白塚公民館に図書室はなかったが、同時点で325冊を所蔵していた。当時の三重県立図書館は事実上、津市の市立図書館の役割を代行し、津市も年間15万円を県立図書館に納めていた。また津市には県立図書館の貸出文庫を積極的に利用する20の熱心な読書グループがあり、図書館員との交流の中で市立図書館の必要性を認識し、津市立図書館設立実行委員会を立ち上げて市立図書館の設置を目指すようになった。
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開館前史(-1982)
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「日光市立図書館」の記事における「開館前史(-1982)」の解説
後に今市市の一部となる河内郡豊岡村では、皇紀2600年記念事業として、1940年(昭和15年)に青年団員が本を持ち寄って青年図書館を大桑小学校内に設置した。 上都賀郡今市町は1949年(昭和24年)7月28日に今市町報徳公民館条例を可決し、建坪240坪(≒793.4 m2)2階建ての今市町報徳公民館を開館した。同館は図書部を有し、図書の購入・頒布・保管・貸し出しと読書指導を担当した。公民館図書室は毎週土日に開室し、1952年(昭和27年)度の利用実績は週平均で、利用者数40人、貸出冊数50冊であり、1,200冊を所蔵していた。また、移動図書館事業も実施し、毎回平均102冊の貸し出しがあった。今市町が周辺町村と合併して今市市となって以降、今市報徳公民館は市内の公民館活動を調整する役割を担い、隣接する今市公会堂とともに市の文化活動の拠点として機能した。 今市公会堂が老朽化してきたため、1975年(昭和50年)10月から平ヶ崎で新館建設工事が始まり、1976年(昭和51年)10月に今市市中央公民館(現・日光市中央公民館)、1977年(昭和52年)6月に今市市文化会館(現・日光市今市文化会館)が開館した。
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開館前史(1972-1985)
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「鹿嶋市立中央図書館」の記事における「開館前史(1972-1985)」の解説
旧鹿島町は鹿島神宮の門前町(鳥居前町)として栄えた町であったが、鹿島臨海工業地帯の開発(鹿島開発)に伴って人口の急増、産業構造の転換、急速な都市化が起き、住民の高学歴化と教育水準の向上が進んだ。こうした背景を踏まえ、1972年(昭和47年)に小川利夫の「公民館三階建論」を援用した鹿島町中央公民館が建設された。鹿島町当局は公民館に「新旧住民の融和」を期待し、鹿島への進出企業は積極的に公民館活動に協力したため、新住民は公民館の事業に多く参加したものの、旧住民の参加は低調であった。この公民館の1階には床面積132m2の図書室が設けられ、司書も配置された。開館時間は9時から17時で、貸出は4冊まで2週間借りることができた。 住民側では、公民館図書室を中心として活動する母親文庫や読書グループなどが連合し、1977年(昭和52年)6月25日に鹿島町読書団体連合会(以下、「連合会」)を設立した。連合会は活動目標の1つに図書館の設置を掲げたが、当時の住民からは「図書館なんて夢みたいなことを」と言われるありさまであった。それでも連合会はおはなし会や映画鑑賞会を開くなど活発な活動を行い、1977年(昭和52年)以降毎年何らかの賞を鹿島町の個人や団体が茨城県読書振興大会で授与されるほどであった。公民館図書室も読書相談に応じる専門職員を配置して住民の要望を叶えようと努力し、年間来館者数4 - 5万人、貸出冊数4 - 5万冊、おはなし会や著者を囲む会の開催など、公民館図書室でありながら、活動が低調な公共図書館を上回る実績を挙げていた。公民館図書室の努力にもかかわらず、年々高まる住民のサービス要求に対しついに応じきれなくなり、当時の公民館図書室の担当職員は活動の限界を認め、「所詮、公民館図書室は、図書室であり、図書館にはなりえない」と語った。住民の間で、にわかに図書館建設の期待が高まり始めたのが1980年(昭和55年)頃のことであった。 1982年(昭和57年)2月22日、第5回公民館研究集会で、図書環境の充実を求める決議を採択した。これは住民と公民館職員の協働による図書館建設へのアピールであった。連合会では図書館に関する専門書で学習するとともに水海道市立図書館、取手市立図書館、石岡市立図書館、水戸市立図書館を歴訪し、同年8月に図書館設置の要望書を鹿島町長と教育長に提出した。受け取った町当局は当初、難色を示したが、1984年(昭和59年)の町制30周年記念として1983年(昭和58年)3月に鹿島町議会は1985年(昭和60年)までに図書館を建設することを決議した。同年4月20日に「広報かしま」で図書館に関する意見を募り、連合会でも6月17日に2度目の要望書を提出した。意見や要望は2,406人(町民の17人に1人)から出され、多くの町民が計画に携わった。この間、連合会主催による浦安市立図書館の見学会や教育委員会による日野市立図書館と福生市立図書館の視察が行われた。 鹿島町側から出された図書館建設計画は町民の意見とおおむね一致していたが、建設場所だけは賛否両論が入り乱れた。連合会は町民の生活動線上に図書館を望むとして町役場の隣を要望し、鹿島町青年部は商店街の活性化を意図して市街地への建設を求めて約2000人の署名を町長に提出した。しかし用地確保が困難なことから、鹿島神宮隣接地への建設が決定した。ところが地権者との認識の不一致で借地契約が5か月遅れ、開館時期に遅れが生じることになった。そして1984年(昭和59年)11月に着工し、1985年(昭和60年)7月に完工した。竣工式は同年10月9日に挙行された。
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開館前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 01:03 UTC 版)
第二次世界大戦前には、図書館・博物館の機能を兼ねた神奈川県立金沢文庫が1930年に設立され、県内の図書館の中枢機能を担った。1934年には神奈川県図書館協会が建議書を知事に提出したことによって、県立図書館設立に向けた動きが始まるが、戦争により立ち消えになる。戦後の1949年、神奈川県は横浜市図書館(横浜市中央図書館の前身)を県の中央図書館として指定、同館が県立図書館としての機能・事業を代行することになった。 図書館法公布(1950年)を受け図書館設置の要望が高まると、県は講和記念事業として音楽堂とともに県立図書館を設置することを決め、1954年11月に開館した。これは日本の全都道府県立図書館の中で最後から2番目で、これにより未設置県は兵庫県(兵庫県立図書館、1974年開館)を残すのみとなった。
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