鹿島臨海工業地帯とは? わかりやすく解説

かしま‐りんかいこうぎょうちたい〔‐リンカイコウゲフチタイ〕【鹿島臨海工業地帯】

読み方:かしまりんかいこうぎょうちたい

茨城県南東部鹿島灘南部沿岸造成された工業地帯鹿嶋市神栖(かみす)市にまたがる。石油化学工業鉄鋼火力発電などのコンビナートがある。


鹿島臨海工業地帯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/14 20:11 UTC 版)

鹿島港を中心に工場が広がっている

鹿島臨海工業地帯(かしまりんかいこうぎょうちたい)は、茨城県鹿嶋市および神栖市一帯にある工業地帯である。鉄鋼業発電所石油化学等の工場群がある。

約180の企業、2万2000人の従業員を擁し、茨城県下最大の工業集積を誇る。

概要

茨城県の東南部(鹿行地域)、霞ヶ浦の東に位置する。鹿島灘に面し、掘込式の工業港である鹿島港を中心に広がる。

鹿嶋市は日本製鉄東日本製鉄所鹿島地区を中心に日本製鉄グループの企業が立地している。神栖市は石油化学工業飼料を中心とした企業の工場が立地している。そのほか、火力発電所風力発電所が多く立地している。

鉄道では、貨物線の鹿島臨海鉄道鹿島臨港線が通っており、JR東日本鹿島線鹿島サッカースタジアム駅と接続する。

鹿島臨海工業地帯の工業用地は、鹿島港の北側に位置する鹿嶋市の高松地区、北海浜地区と、鹿島港の南東側に位置する神栖市の神之池東部地区(通称・東部地区)、南海浜地区、奥野谷浜工業団地と、鹿島港の南西側に位置する神之池西部地区(通称・西部地区)と、神栖市砂山に位置する波崎地区の各地区に分けられる。

歴史

1944年昭和19年)、後に工業地帯となる一帯に軍の中央航空研究所建設の構想が持ち上がり、11人が所有していた民有地を大蔵省強制収用した。研究所は建設されないまま、戦後に土地は大蔵省から神栖村、国際電電株式会社へ払い下げられている[1]

1959年(昭和34年)、茨城県知事に当選した岩上二郎は、政策目標に「後進県からの脱却」を掲げ、とりあえず生産性の低い県内の砂丘地帯の農業所得を向上させ、さらに工場を誘致して農外所得を加えることで、低迷にあえいでいた県民所得の増大をはかった[2][3]。県は、翌1960年(昭和35年)に「工場誘致条例」の制定、「鹿島灘沿岸地域総合開発の構想」を打ち出して鹿島開発の試案がまとめられ、工場誘致に乗り出した[2]

翌年9月に作成した「鹿島臨海工業地帯造成計画」によれば、「鹿島工業港の建設及び霞ヶ浦を水源とする工業用水道計画を中核とする臨海地域に、4,000ヘクタールの工業地域を造成するとともに、交通網の整備と相まって、さらに数千ヘクタールの住居地を開発し、鉄鋼、石油、化学、機械等の総合的臨海工業地帯の実現とあわせて、機能的近代都市の形成」をはかるという計画が謳われている[2]1963年(昭和38年)には工業整備特別地域に指定され、その前年に策定された全国総合開発計画(全総)で謳われている拠点開発方式の実践として事業が進められ、30万人都市を新造するという国家プロジェクトによる巨大開発は「農工両全」、「貧困からの解放」をスローガンとして推進されていった。

開発計画はいくども計画変更がなされ、特に鹿島港の規模はタンカーの大型化に対応すべく大きくなっていった[2]

開発地域の用地買収は1964年(昭和39年)に開始。最も困難だったのは、工業地帯内には民有地が多かったため、これらの土地を買収して工業用地を確保することであった[2]。県は工業地帯にかかる土地のうち、地元の地権者が4割の土地を提供し6割の代替地移転とする鹿島独自の土地買収方法「6・4方式」を編み出し、地元地権者の理解と協力により用地買収が進められ、昭和42年度末(1968年3月)までに目標面積4,000ヘクタールの約8割まで買収が進んだ。

1967年(昭和42年)には進出予定23社の立地が決定した[2]1969年(昭和44年)4月に、住友金属鹿島製鉄所の熱間圧延工場での操業が始まり、10月には鹿島港も開港する。更に1971年(昭和46年)には神之池東部地区に進出した石油化学関連企業の操業が開始され、鹿島臨海工業地帯における鉄鋼・石油コンビナートの形が整った[2]1973年(昭和48年)鹿島臨海工業団地造成事業工事完了の公告が出され、1984年(昭和59年)には茨城県が開発収束の宣言を出した。

2011年(平成23年)3月11日東北地方太平洋沖地震東日本大震災)では揺れに加え津波液状化で、鹿島港の港湾設備が損壊したほか、各社の工場設備にも大きな被害が発生、震災直後は操業停止状態に陥った[4]

なお、2020年10月時点での人口規模は、鹿嶋市・神栖市あわせて約16万人[5]

鹿島臨海工業地帯開発組合

鹿島臨海工業地帯開発組合(以下、開発組合)は、1960年代にはじまった「鹿島開発」で、開発に必要な工業用地や移転代替地の土地取得業務にあたった組織である。当時、茨城県から派遣された職員がオートバイに乗り、用地交渉に出かけた拠点である開発組合鹿島事務所は、現在の鹿島セントラルホテル新館の位置に建てられていた[6]

開発に必要な港湾予定地、工業用地、住宅団地、代替地など約5,000ヘクタールの用地を取得することを目的に、1962年(昭和37年)に設立され、2年後の1964年(昭和39年)から用地取得が始められた。用地交渉では、土地地権者には4割の土地を提供してもらう鹿島独自の「6・4方式」と呼ばれる土地取得方式が取られた。開発が進むと、土地提供への反対も根強く、ほとんどが単身赴任者だったという県から派遣された大勢の開発組合職員らにとっては、困難な用地交渉が強いられたといわれる[6]

当時600人程が働いた開発組合は1984年(昭和59年)に解散され、3階建てあった旧開発組合鹿島事務所は用地関係の書類を保管する倉庫として一時使われたこともあったが、その後はほとんど使われることはなく、旧事務所や職員宿舎などがあった2万平方メートルの県有地が、茨城県や地元企業が出資する第三セクター会社の鹿島都市開発が計画した鹿島セントラルホテル新館の建設予定地として再利用されることとなり、1996年(平成8年)11月に旧事務所などが取り壊されて1997年(平成9年)2月には更地となった[6]

年表

  • 1960年昭和35年)4月 - 「鹿島灘沿岸地域総合開発計画(試案)」作成[7]
  • 1961年(昭和36年)4月 - 神栖村深芝浜に茨城県鹿島港湾調査事務所が開設される[7]
  • 1961年(昭和36年)9月 - 茨城県が「臨海工業地帯造成計画」(マスタープラン)作成[7]
  • 1962年(昭和37年)4月 - 茨城県と鹿島町・神栖村・波崎町の3町村によって「鹿島臨海工業地帯開発組合」がつくられ鹿島事務所が開設する[7]
  • 1963年(昭和38年)11月 - 鹿島港起工式[7]
  • 1964年(昭和39年)2月 - 開発組合が用地の買収を開始[7]
  • 1965年(昭和40年)3月 - 深芝浜・居切浜住民の移転先が神栖村大野原と決定し、6月に移転開始し11月に移転完了する[7]
  • 1965年(昭和40年)6月 - 神栖村議会は神之池埋め立てを全員一致で可決[7]
  • 1965年(昭和40年)11月 - 鹿島港の中央航路の掘削工事が開始される
  • 1966年(昭和41年) - 進出企業の一部(18社)社名が公表[7]
  • 1967年(昭和42年)3月 - 国鉄鹿島線起工式[7]
  • 1968年(昭和43年)4月 - 住友金属工業鹿島製鉄所の起業式が行われる[7]
  • 1968年(昭和43年)7月 - 知手工業団地の造成が始まる[7]
  • 1968年(昭和43年) - 内定企業への土地譲渡予約開始[7]
  • 1969年(昭和44年)5月 - 東部地区石油化学コンビナート(11社)合同起工式[7]
  • 1969年(昭和44年)10月 - 佐藤総理大臣、三笠宮夫妻を迎えて鹿島港開港記念式典が挙行され、鹿島港が開港する[7]
  • 1970年(昭和45年)2月6日 - 5万トンの原油タンカー(大栄丸)が初入港し、鹿島石油鹿島製油所の岸壁に初接岸する[7]
  • 1970年(昭和45年)4月 - 鹿島石油鹿島製油所、三菱油化鹿島事業所が創業開始
  • 1970年(昭和45年)8月20日 - 国鉄鹿島線(北鹿島-香取)の開通式が行われる[7]
  • 1970年(昭和45年)11月 - 鹿島臨海鉄道が営業運転を開始[7]
  • 1971年(昭和46年)1月 - 石油化学コンビナート合同完工式(13社)[7]
  • 1972年(昭和47年)10月 - 25万トンのタンカー(ジャパン・アイリス号)が入港[7]
  • 1973年(昭和48年)10月 - 都市計画法による市街化、同調整区域の指定[7]
  • 1973年(昭和48年)12月 - 工業団地造成事業の工事完了の公告が出される[7]
  • 1984年(昭和59年)7月31日 - 鹿島臨海工業地帯開発組合が解散される[8]

主な工業都市

  • 鹿嶋市:鉄鋼
  • 神栖市:石油化学、飼料

主な事業所

鹿嶋市

高松地区


北海浜地区


神栖市

神之池東部地区

奥野谷浜工業団地


南海浜地区

神之池西部地区

波崎地区

関連する映画作品

ベニー・デスワルト、ヤン・レ・マッソン共同監督。
1970年に来日した2人が、鹿島臨海工業地帯を舞台に、高度経済成長期における日本の現実を伝える記録映画。鹿島が臨海工業地帯に指定され、開発景気に沸くとともに農民は土地を手放し、工場労働者に変わっていくさま、さらにそこが歓楽郷(鹿島パラダイス)に変貌していく。開発に抵抗する象徴として、成田空港に反対し土地を死守する農民の三里塚闘争をも捉えていく。最後に「鹿島は資本主義のパラダイスだ」の文言で締めくくられる。1973年度ジョルジュ・サドゥール賞を受賞。
見渡す限りの荒地を、一大工業地帯にしようと夢みる男たちが、生臭い欲望がうずまく中で、純粋に理想を実現する勇気を、茨城県鹿島灘の臨海工業地帯をバックに描く。主演は石原裕次郎、原作は木本正次の「砂の十字架」。脚本は猪又憲吾。監督は中村登。撮影は金宇満司がそれぞれ担当。

脚注

  1. ^ 「国が勝手に払い下げ 戦時中の強制収容土地」『朝日新聞』昭和46年6月2日.3面
  2. ^ a b c d e f g 川俣英一 1995, pp. 236–238.
  3. ^ 茨城、後進県ではないけれど(こだま) - 日本経済新聞電子版(2018/1/16 1:31更新)2018年6月19日閲覧
  4. ^ 操業停止相次ぐ鹿島臨海工業地帯、車・家電など川下への影響甚大【地図で見る震災被害】(2011年3月23日 東洋経済オンライン 2012年4月20日閲覧)
  5. ^ / 令和2年国勢調査 (2021年8月8日閲覧)
  6. ^ a b c 「鹿島開発、消える象徴-『開発組合』事務所取り壊し」『茨城新聞』、1996年12月15日付日刊、19面〈社会〉。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 神栖町史編さん委員会著『神栖の歴史』普及版(神栖町、昭和59年7月1日発行より)
  8. ^ 鹿島臨海工業地帯開発組合の解散(鹿島臨海工業地帯開発組合) (PDF)”, 茨城県報 (茨城県) 第7266号: pp. p.9, (1995年7月30日) 

参考文献

  • 川俣英一 著「二つの大規模開発」、所理喜夫・佐久間好雄・網野善彦・佐々木銀弥(編) 編『図説 茨城県の歴史』(初版)河出書房新社、1995年、236-238頁。ISBN 4-309-61108-7 

関連項目

外部リンク




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鹿島臨海工業地帯」の関連用語

鹿島臨海工業地帯のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鹿島臨海工業地帯のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの鹿島臨海工業地帯 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS