鹿島開発とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 18:24 UTC 版)
昭和30年代後半より高度経済成長期に入り、1960年(昭和35年)に当時の茨城県知事岩上二郎は「鹿島開発構想試案」をまとめ、1962年(昭和37年)4月に、鹿島臨海工業地帯開発組合が茨城県と鹿島・神栖・波崎の地元3町村によって設置されて鹿島開発がスタートし、鹿島臨海工業地帯の港湾と工業用地として神之池の埋立が計画された。同年11月には鹿島臨海工業地帯の核となる鹿島港の起工式があり、1964年(昭和39年)6月、神栖村議会で鹿島港湾南航路にかかる神之池の埋立計画に同意することが決議された。この頃の神之池は、工業技術院地質調査所の報告書により、湖岸線の長さ6.6 km、平均水深0.8m、最大水深1.82m、湖面面積3.065km2(306.5ha)あったとされている。1967年(昭和42年)4月には埋立工事の起工式が執り行われ、公有水面面積296万m2のうち45万m2を遮断緑地を含む農業用水利用調整池として残し、それ以外の神之池を埋め立てる事業が進められてゆく。1969年(昭和44年)には神之池を二分する締切堤防が築かれ(堤防上に鹿島臨海鉄道が敷かれる)、海岸寄りの池の部分の埋め立てが始められた。鹿島港を掘り込む際に発生する大量の土砂が神之池の埋立に利用されることになり、こうして一千年以上の歴史を持つ神之池は約7分の1を残して埋め立てられ、周辺地域の人々のシンボルであったその姿を変えて現在の姿となっている。埋め立てられた地域は、現在の花王鹿島工場、DIC鹿島工場、JSP鹿島工場、三菱ケミカル茨城事業所の一部などに相当する。池周辺は住民の憩いの場として緑地公園に整備された。
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