鹿島郡勝下村・田口家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 09:38 UTC 版)
江戸時代、鹿島郡勝下村の旗本須田氏知行地の村役人は、田口家一族が担った。 田口家は、常陸江戸氏の旧臣と伝えられる。田口越後を祖とする。越後ののち田口家は、外記(げき)と茂兵衛とに分家した。 このうち茂兵衛家は、越後から数えて5代、当主・茂兵衛昌長の代には、持高28石にのぼる田畑・山林を所有していたほか、船2艘・舟子(乗組員)20人による地引網漁の操業にくわえ、塩田における製塩などを行っていた。 享保20年3月に鹿島郡一帯の村々が飢饉に見舞われた際、茂兵衛昌長は近郷へ食糧を無利息で貸し与え難をしのいだ。 のち後継者に恵まれず田口茂兵衛家は一時断絶するが、藤田東湖および同村の小沼藤左衛門の働きかけにより、田口秀実が継承することで再興される。
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